牛島天満宮の太鼓橋

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牛島天満宮の太鼓橋

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■所在地佐賀市東佐賀町15-30
■年代近世
■登録ID522

 天満宮西の鳥居側に天満橋があるがこの橋は、願正寺の東で呉服町水路から分かれた循誘川に架かっている。この天満橋の南に高木橋があり、北には十間堀川の清心橋がある。
 牛島天満宮の太鼓橋は、宝暦8年与賀神社、堀江神社、八坂神社に次ぐ古い橋である。この橋については別の眼鏡橋で詳しく掲載しているので参照していただきたい。

出典:ふるさと循誘(P.183)

 眼鏡橋といわれるアーチ形の石橋は、長崎興福寺の僧、黙子如定が、寛永の12年(1635)長崎の中島川に築いたのが始まりとされており、この橋は如定が、母国で見た石橋を真似して造らせた。 その後、九州各地に広まり九州独特の石橋文化を築いて行き、19世紀前半に、肥後の種山村(現在の熊本県八代市東陽町)で花を咲かせた。九州には、400を超える石橋があり、これは全国の98%にもあたり九州が、わが国石橋文化の発祥の地であるという事実を物語っている。種山の石工『藤原林七』は、長崎奉行所に勤務する下級武士であったが、当時中島川の石橋に興味を持ち、やがてこの橋が、円周率を利用して造られていることを知った。さらに築造技術を知ろうとして、禁を犯して異人に近づいたことが発覚し、奉行所を追放されて種山に隠れた。この地方は、上質の石材があったので、これを使って眼鏡橋工事を始めて10年、苦心に苦心を重ねてやっと小さな眼鏡橋を完成させることができた。この後、藩の要請を受けて、九州各地へと種山から技術者が派遣され、多くの石橋を築いていった。その代表的な人物が『岩永三五郎』で、彼は、薩摩藩に招かれ、10年の間に36の石橋を築いた。このほか岩永とならんで名石工『橋木勘五郎』も種山に生まれ、明治に至り、皇居の二重橋の他日本橋や江戸橋等の架橋に関係した。一方、砥用町を流れる緑川に架かる『霊台橋』は、日本一大きいアーチ石橋として知られているがこの橋は、種山の卯助、宇市、丈八の3人の兄弟が、僅か1年足らずの工期で弘化4年(1847)に完成させたものである。『霊台橋』の完成をはずみにして、今度は、種山石工達の石橋技術の集大成ともいうべき矢部の『通潤橋』工事を完成させ、勿論現在でも約100ヘクタールの田畑を潤している。この眼鏡橋は、橋脚が少なくてすみ、大水の際に水を支える害が少ないというすぐれた構造をもっているが、反面技術的に橋架が大変難しく経費も多額を要する点もある。眼鏡橋が九州に集中し全国に広がらなかったのは、技術が秘伝とされていたこと、次に幕藩体制は本州内に頑丈な橋ができるのを嫌った。即ち石橋は、防衛戦略上マイナスの要因と見られていたためと考えられる。佐賀市には、眼鏡橋が無いのが不思議であるが、地盤が軟弱で技術的に困難性があったのかそれとも他に何かの原因があったのかはっきりしない。現在ある石橋の多くは、神社や寺院の参道にあって、小規模のものがその主流を占めている。牛島神社の橋は、宝暦8年(1758)の造立となっている。なお、与賀神社の石橋は、慶長11年(1606)で、神野の堀江神社のは寛永8年(1631)の銘がある。

出典:ふるさと循誘(P.33)

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