神代勝利公の墓 一基(石造宝篋印塔)

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神代勝利公の墓 一基(石造宝篋印塔)

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■所在地佐賀市富士町大字関屋 宗源院
■文化財指定状況佐賀市 重要文化財
■文化財指定日平成10年5月27日
■登録ID5209

神代勝利は天文元年(1532)龍造寺氏に対抗しようとする山内の武将に請われて三瀬城主となり、神代大和守勝利と称した。弘治3年(1557)金鋪峠(かなしきとうげ)の戦で隆信勢を破ったが、永禄4年(1561)川上合戦で決定的な敗北を受け、永禄8年(1565)山内の畑瀬城で病死した。
 墓碑は、石垣の三段積で、玉垣で囲み、台の上に石門があり、、墓石は宝篋印塔で、基礎・塔身・笠・相輪で構成されている。基礎から相輪までの総高は、108.0センチメートル、塔身の東西南北四面に、「星」「心」「日」「月」の四文字が深く刻まれており、基礎石正面には、摩耗した浅沈線の為に不明瞭であるが「覺譽賢利」「大禅定門」と勝利の戒名が2列に彫られている。
墓碑は東畑瀬の宗源院にあったが、嘉瀬川ダムの建設により、ダム堰堤の左岸、畑瀬トンネル近くのダムの水面を眺められる高台に移設されている。