久保泉町名の起こり

久保泉町名の起こり

■所在地佐賀市久保泉町
■登録ID2965

久保泉・金立・春日を上佐賀上郷といい、富士町を入れて中世は「安富荘」という荘園で、後白河法皇が建立された長講堂御領であった。
但し、川久保の十九丸は私領としての取扱を受けていたようだ。
室町期には、少弐・千葉氏の後を神代氏が支配し、近世には川久保鍋島家として石高1万石で、物成(年貢)4,300石の親類藩となった。
1787年(天明7)の領村目録では、河窪・一井之木・徳永・上泉の一部・神埼町大字竹が神代氏の配分地=知行地で、上泉の一部・西尾崎・下泉が佐賀本藩の蔵入地=直轄地であった。
西尾崎村には本村・白石原・折地・池副が、下泉村には立野・古村・古賀・東上ヶが、徳永村には村徳永・篠木野・光岡・川原が、一井之木には野中が、上泉村には草場・出来島が含まれていた。
金立徳永は薬師丸村で、大小野は来迎寺村に入っていた。
明治11年の郡区町村編成法翌年西尾崎村は下和泉村に、村徳永と檪木村が上和泉村に入り、川久保村を入れて3ヶ村となった。
明治21年の市町村制の翌年、3村は合併し、川久保の久保と上和泉・下和泉の泉とを複合させて久保泉村が誕生、旧村を大字地名とした。
川久保はもと河窪と書き、清い水が豊かに流れる低地の意、泉は美しい地下水の湧き出る所の意で、和泉と書くのは713年(和銅6)の風土記編さんに郡・郷名を二字に改めたことに準じた雅読み文字。
昭和29年佐賀市に吸収合併され、佐賀市久保泉町と改名し、今日に至った。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp5