神籠池

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■所在地佐賀市久保泉町大字川久保
■年代現代
■登録ID2954

 佐賀平野の条里は、城原川の西にも設定され、西郷野寄を基点とし西は横落から金泉中へ、南は城田上黒井までの3.9㎞、1里の方形であった。当時この間は、水に恵まれず墾田開発は進まなかった、と広島大学の米倉二郎氏は説く。藩政初期、神代氏の配分地となり、横落水路・八ッ溝の開さく・大小の溜池築造・河川の改修が為され、新田が開発された。だが水不足は思うにまかせず、水源かん養林では間に合わない。
 神籠池の竣工碑には、『昭和12年村長本村久雄、村民に訴え同県補助による計画を樹て、同15年認可、16年起工云云』とある。
 昭和4年、同9年には旱天続きで田が植えられず、水争いが各地で起こり、溜池の拡充・増設の議があがった。始めは、勝宿社の所で城山・鈴隈が迫り狭谷50mなので、社を城山に移し、ここを塞き止め県営ダムを、との案であったが、地元が反対したので、長い導水路を付け、東の小城内に移し縮小することになった。受益面積500haという。
 この改良案を住民に訴えたのが、昭和12年である。ところが同14年、西日本一帯の未曽有の干ばつは、御神輿のお下りまであって9月9日にやっと雨が降った。村長本村氏は、再参内務省と直談判をし、ようやく16年着工と補助の約束を得た。
 だが村内の政党争いで彼の土産が届かぬ内に、村長の座は変わっていた。
 戦後、復員・引揚者の労働力により、8ヶ年の歳月をかけ昭和24年やっと竣工した。
 工事中発見された神籠石に因んで『神籠池』と命名された。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.59〜61

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