青木繁

青木繁

■所在地佐賀市富士町
■登録ID2841

  画家
 「天才画家」と謳われながら、中央画壇に認められず、懊悩と憤懣そして病魔への苦悩を紛らすために自から求めた酒のため益々病勢を悪化させながら、最後の力を振り絞って描いた大作「朝日」の絵を抱いて、青木繁が唐津駅前の木村屋旅館を発ったのは、明治43年10月初旬のことであった。
 唐津市から小城町まで40㎞の道程を歩いて寄宿していた平島家に辿りついた青木は大分衰弱していた。
 平島家では、画友江里口が、肺結核には温泉療養がよくはないかと、古湯温泉へ連れてきた。小城町の清水から、白坂峠を越えて、天水、柚木の集落を経て古湯へ来ているようである。
 「青木繁その愛と彷徨、著者の北川晃二(当時、夕刊「フクニチ」編集長)は、次のように記している。
 「古湯は川上川の上流だが、小城町からはさして遠くない。山あいの鄙びた温泉で、湯治客もそう多くはなかった。扇屋という宿を紹介し、友人江里口は、何も彼も忘れてじっくり静養するようにいい聞かせた。
 温泉のせいか、まもなく青木は元気を回復した。
 平島はまた、旅館代その他青木の借金返済のため努力した。
 平島は自分が勤めている小城中学(現小城高校)の校長国井清音に頼んで、青木の絵「朝日」を買ってくれるように頼んだ。平島が人格者であったことから、その友情に報いてやろうと56円30銭で買ってやる。(現在、小城高校に保管してある縦91㎝横117㎝の大作がそれである。時価数千万円といわれている)。
○古湯での作品
 古湯で画いたものに「温泉」と「浴女」がある。「温泉」は、広い湯槽の中に立っている若い女の裸身がきれいで、青木のデッサンの確かさ、情感の豊かさを示すものである。
 青木はこの作画を引っ提げて上京この年の文展にすべてを賭けるつもりだっただろう。
 東京に寄せる思いは、最後まで強かったのだ。「浴女」は、浴槽で腰に布をひろげて腰かけている女の入浴姿である。
 眞裸を水鏡する温泉や膚で温くき百合の咲く谷
  解き髪に乳房を押さへ湯滝俗む大理のとばり 肌滑かき
  ねくたれやもろ手を挙げて掻いけづる肩にうねりの蛇に似る髪
 誰のことを思ってつくったのか、古湯温泉に残した短歌である。
 

出典:富士町史下p.248〜p.250