鍋島の起原

鍋島の起原

■所在地佐賀市鍋島町
■登録ID2703

 高木瀬町東高木と鍋島町森田を結ぶ線、即ち標高5mの線が縄文中期の平均満潮位の線と考えられる。現在の佐賀市街地の大部分は湿地で、人々はこの等高線より以北に生活していた。次に弥生時代の初期になれば、標高4mの等高線が居住圏の南限だったことが弥生期の貝塚の分布から想像され、これはほぼ現在の国道34号線の付近になる。これで旧佐賀城下町の中心付近が海岸線であったということになる。だからこの頃までわが鍋島町は有明海の底であった訳である。
 また佐賀市から北の上佐賀地方には、弥生式土器がしばしば発掘されたことがあり、鍋島町でも昭和15年頃、八戸五竜神社付近から赤褐色の丸底土器石及び土弾が発掘された事があり、鍋島一帯は弥生式聚落の跡であり、農牧を主体とした地域であった事は明らかである。
 更にこの地方は古代有明海が湾入して、そこに幾多の島々を形成し、また100年に1㎞ずつ進むといわれる有明海の沖積により、あるいは嘉瀬川が数千年にわたり幾十回のはん檻をくり返すうち、いつしか今のような農業地帯となったのである。
 また肥前風土記の佐嘉郡の条には、「昔者、樟の樹一株この村に生いたり。幹枝も秀高く、茎も繋茂れり。朝日の影には、杵島郡の蒲川山を覆い、暮日の影には、養父郡の草横山を覆えり」と書いてある。
 なお本町北部方面は往昔渺茫たる海原であり、日本武尊川上梟討伐の折、上陸した地点が蛎殻が特に多かったそうで、それに因んで蛎久と呼ばれその地名が今もなお残っている。
 更に本町は佐賀藩公発祥の地であり、又蛎久はむかし肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地として関連国衙、学舎、兵舎、寺院はじめ、民家二千戸以上密集し、殷賑を極めたため、次の様な小路の呼称が今も残っている。

長 瀬 寺小路
蛎 久 寺小路、横小路、鳥栖殿小路
植 木 小路、南小路
津 留 小路
増 田 南小路 北小路
鍋 島 南小路 北小路
木 角 中小路
森 田 小路
東新庄 矢倉、市場、馬渡
西新庄 小路、中ノ坪
江 頭 薙町、荒巻
八戸港 中小路

出典:鍋島町史p.145〜147