成富兵庫茂安

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成富兵庫茂安

■所在地佐賀市鍋島町大字鍋島(増田)
■登録ID2680

 佐賀市には兵庫町という町があり、三養基郡には北茂安町がある。また三根町の半分は、もと南茂安村と呼ばれていた。これらはすべて戦国の武将龍造寺隆信の家臣で、その死後鍋島直茂、勝茂に仕えた成富兵庫茂安の名にちなんだものである。また、北茂安町には、北茂安音頭が生まれた。佐賀大学名誉教授内山良男氏作詞、唐津松浦文化連盟委員松下又彦氏作曲のもので、その新民謡には茂安の徳をしのんだ一節がある。
  ハア 成富公のナイナイ
  ご遺徳偲びチョイト
  土手のあたりで鳥が舞う
  サテピーチクパーチク賑やかに
 このように死後300年たつ今もなお、兵庫は治水の神として、あちこちで年に1度は「兵庫さん祭」といって、近くの農民が集まり、彼の遺徳を偲んでいる。成富兵庫茂安こそは、鍋島が生んだ第一級の偉人である。
 成富兵庫茂安は、成富甲斐守信種の二男として、永禄3年(1560)鍋島町増田で生まれた。増田地区東北隅嘉瀬川堤防には、昭和42年2月同町公民館有志の発起で、「成富兵庫茂安公誕生の地」の碑がたてられている。
 その記念碑の題字は池田知事の筆で、裏には宮田佐賀市長の撰文になる功績を称える碑文が刻まれている。除幕式には、増田子どもクラブのよい子たちが歌う「成富兵庫の歌」が早春の嘉瀬川堤防にはずんだ。
 茂安は資性豪勇、智慮深く、17才の初陣に、偉功をたてたのを初めとし、寛永11年(1634)9月病没するまで75年間、前半は今山戦は勿論、朝鮮の役はじめ、大小幾多の戦闘に参加し、武勲を顕はした武将として知られている。
 また築城、治水、土木工事の達人で、荒蕪地を開墾し、干拓工事を起したり、新田を作ったり、或は植林をなすなど幾多の事業を行って藩の財政を豊かにした。
 即ち中年頃は江戸、京都、駿府などで築城技術の名手として招かれ、次の様に佐賀以外の各地で名をあげた。
 慶長6年二条城普請
 慶長8年江戸市街修理、運漕水路開発
 慶長11年江戸城修築
 慶長13年駿府城築造
 慶長14年名古屋築城
 このように茂安は、豊臣直系の加藤清正と共に、各方面の工事に参画し、手腕をふるい、しばしば当意即妙の技を演じ、数々の逸話を遺している。それは「成富家譜」にくわしい。
 こうして兵庫は「鍋島家に成富兵庫あり」と名がとどろいた。一方武士としての心ばえもいさざよく、加藤清正から1万石で招かれたとき、鍋島武士のならい「たとえ肥後一国を賜わるとも応じがたく侯」と謝絶したことは有名である。
 

出典:鍋島町史 第一篇p.12〜13