肥前忠吉(初代) 

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肥前忠吉(初代) 

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■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2593

  元亀2年(1571)〜寛永9年(1632)
 龍造寺隆信の家臣橋本道弘の子として、長瀬(佐賀市高木瀬町長瀬)に生まれた。俗名橋本新左衛門、父病没後一族の長瀬鍛治に引きとられ、刀鍛冶になった。初代藩主鍋島勝茂に取り立てられ、25歳の時藩命により、京に上り新刀の祖、埋忠明寿の弟子として入門、約3年修業を積み帰国した。
 慶長3年(1598)藩命により城下に一族移転(現佐賀市長瀬町)、その地を出生地に因んで長瀬町と呼ぶようになった。
 寛永元年(1624)再度上京、朝廷より武蔵大掾の位を受領して名を忠廣と改めた。今でも忠吉一門の旧宅は、武蔵屋敷、正広屋敷、近江屋敷などと呼ばれ往時の盛業の跡をしのばせている。
 初代から9代いずれ劣らぬ名刀工といわれた中で、3代陸奥守忠吉は初代につぐ名工として知られている。又8代忠吉は肥前刀中興の刀匠といわれ、幕末を飾った名工で、佐賀藩の大砲鋳造にお鋳立方七賢人の一人として貢献した。
 肥前刀は、武士の間では、差料することを無上の誇りとしていた。
 又、鍋島藩主の特別の保護と宣伝工作により、国内のみならず朝鮮、中国などにも名を広めた。尚、初代忠吉の墓は、伊勢町の真覚寺に、2代より9代の墓は、八戸町の長安寺にある。

出典:日新読本p.189