殉国十三烈士の碑

  1. 建造物
  2. 検索結果
  3. 殉国十三烈士の碑

殉国十三烈士の碑

  • 殉国十三烈士の碑
  • 殉国十三烈士の碑
  • 殉国十三烈士の碑

■所在地佐賀市城内1丁目
■年代無し
■登録ID2435

明治7年の佐賀戦争は、われわれ先人が近代日本建設の途上征韓論に端を発し、国を愛する真心と民権尊重のためのやむにやまれぬ戦いであって佐賀軍の敗北に終わった。戦後の処分は有無をいわせぬ即断裁判によって過酷を極めた。維新政府の功臣だった江藤新平、島義勇の両首領は、さらし首の極刑に処せられたのを始め、征韓、憂国両党の幹部は悉く斬首され佐賀城内の露と消えた。この中にはまだ26歳の香月経五郎、27歳の山中一郎ら若い逸材もいた。この二人は江藤門下の双璧として将来を嘱望されている人だった。その血を吐くような辞世「天道非か是か。涙、泉のごとし」と。この13烈士が長命を保ったとすれば、明治以降の近代化や社会政策の発展に大いに寄与したものと思われる。徹底した佐賀の弾圧は「佐賀県」の誕生を明治16年まで遅らせ、小城の松田正久が自由党をつくったといっては解散を命ぜられ、明治14年の政変では大隈重信が議会設立をもくろんだといっては失脚させられたりした。佐賀戦争を見直し13烈士の国を愛する情熱を顕彰することによって、青少年の健全育成に役立てようとの願いをこめての碑である。後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年に江藤、島両氏の生前の功績に対し、特別に爵位の恩命があった。
江藤新平 正四位
島義勇 従四位

出典:あゝ佐賀城その歴史と周辺P55

地図