福満寺の回国塔

福満寺の回国塔

  • 福満寺の回国塔
  • 福満寺の回国塔
  • 福満寺の回国塔

■所在地佐賀市北川副町大字江上345
■登録ID2402

福満寺の門前に残る回国塔は、高さ6尺余りの花崗岩で、少し傾いて建っている。前面には、中央上部に仏像を彫り、その下に「大乗妙典回国之塔」の8字、右側には、「天下泰平」、少し下に「奥州津軽」、左側には、「国家安全」、同じく少し下に「行者諦賢」、また裏面には、年月日が刻んであったようだが、「享保年間」とだけしかわからない。
享保2年(1717)春3月、彼岸会の最終日、寺の門前を訪れた一人の六部経持ちの旅僧は、見たところ40年輩の頑丈な男、やや面やつれはしているが、一文字眉で髭はぼうぼうとしているが、精悍の気がみなぎっている。伏し目勝ちにため息をもらし、両眼に涙を浮かべて、何か意味ありげであった。旅僧は「お頼み申し上げます。お願い申します」と、応待に出た老僧に、「奥州津軽の生れで、諦賢と申します。実名だけは、お許し下さい。私の犯した恐ろしい罪は、ザンゲいたします」と申します。「それで回国なさるのか。何はともあれ、罪業消滅のため一切ザンゲされるがよい。私も相談にあずかりましょう」と答えた。
私は、奥州津転の岩木川のほとりに一家を構え、渡し守をして、夫婦二人食うや食わずの貧しい暮らしでした。正徳12年(1722)5月、降り続く雨に、今日は風まで強く吹き込んで、水かさは増し、ごうごうと渦まき流れていた。
床に入ろうとしたとき、「船頭さん、船頭さん。ご用じゃ、お上みのご用じゃ」と言う。
諦賢が驚いて外へ出ると、一人の飛脚が立っていて、「実は、明日までにぜひ届けねばならぬご用金、気の毒だが、川を渡してくれ。骨折賃は、ウンとはずむ」と言う。事情を聞けば、いかにも気の毒である。飛脚一人を乗せて船を出した。雨は止んだが、暗雲が垂れ込め、水勢は激しく小船は上下左右に揺れ動き、なかなか前に進まない。飛脚は、向う岸に着くのを願ってかたずをのんで前を見つめている。その時、隙をうかがっていた船頭は、持っていた櫂を、飛脚の脳天目がけて打ち下した。飛脚は、「船頭、お前は俺を殺す気か、何の恨みがあって、こんなむごいことするのか」と言う。船頭は、「お前に恨みはないが、持っている金が欲しい。金を渡せ」と言う。「恨みもない者を殺すとは、極悪人め、たとえ殺されても、生れ変り死に変り、恨みを晴らさでおくものか」「やかましい。往生ぎわの悪い奴だ」とやりとりがあって、また一撃脳天を打ち砕かれて、アッと一声、そのまま絶命した。舶頭は、飛脚の懐をさぐって、金子300両を取り出し、死体を水中に投げ込んで、岸に引き返した。
家に帰ると、妻が、「おかえり、ほんの今、飛脚さんが見えた。お前さん、そこで会わなかったかい」と言う。「いや、今向う岸に渡してきたばかりじゃないか」と船頭は答えると、妻は、「いや確かに、ここでうなだれて立っていた。よく見ると、頭から血を流していた」と言う。「そんなことがあるものか、もう言うな。俺はひと寝入りする」と言うて、寝たが、別に怪しいことは起こらなかった。
それから女房は懐妊し、月満ちて、男の子が生れた。一粒種の息子を大事に育て、3年過ぎた。その3年目の5月、しとしとと降り続く雨の夜、目を覚ました子どもが、小便をしたいとしきりにせがむ。その夜に限って、外に出ようとせがむ。仕方なく外へ出ると、今度はあっちと言って、船着場を指した。そこで抱きながら放尿させていると、ジロジロと父親の顔を見上げながら、子どもは「父ちゃん、私が殺されたのは、ちょうど3年前の今夜のような真の闇夜だったのだろう」と、大人の声しかも、あの夜の飛脚そのままの声で言うではないか。船頭はびっくり仰天、水を浴びたようで、体も凍らんばかりで、口もきけず身動きもできず、ただ立ちつくした。やがて、われにかえり、因果は恐ろしい。こうしてはおられぬ」と、家に飛び込んだ諦賢は、妻に3年前の飛脚殺しの一部始終を打ち明けた。
「この上は、罪業消滅のため、かつ飛脚の菩提を弔うために、六部となって回国しようと決心した」と妻に話した。「外に、道はあるまい。後のことは私がやるから、一刻も早く飛脚が浮かばれるようにしなければ、坊やの命にも災いがないとも限らないよ」と、妻も勧めた。そこで私は「早速仏門に入り、66か国の回国の途につき、3年余り廻って、ここに来ました」と、話した。
ここで、福満寺の老僧の好意によって、1年余りを過し、その間に回国の塔を刻むのに精魂を傾け、竣工すると別れを告げて、再び行雲流水に身を托して、いずこともなく立ち去ったというのが、回国の塔の由来である。
 

出典:わが郷土北川副町の歴史P147

地図