徐福伝説

徐福伝説

■所在地北川副
■登録ID2401

今から約2,200年前、皇霊天皇の72年、万里の長城を築いた秦の始皇帝の第3子徐福が、始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて、20隻の新造船に、若い男女500人を連れて、五穀を初めさまざまの品物を持って、蓬莱(ほうらい)の国日本に向って船出した。
そして、九州に現われ、有明海に入り船を着けたのが、諸富町搦(からみ)であった。
そこで、長旅の疲れをいやし、由緒ある土地であるからとして、美しい宮を建てたのが、金立神社下宮となっている。そして、手水を使うために井戸を掘らせた。そこを、テライ(手洗いの意)と名付けた。園田家に保存されている。
徐福は、しばらくここに足をとどめていたが、つれづれなるままに、里人と共に舟を浮かべて、酒宴を開いた。歌をうたい、盃を浮かべて、酒をくみ交わしていると、その盃の浮かんだ所から、白い泡が出て渦を巻いたかと思うと、一つの小島が浮かび出た。
これからこの島が浮盃と名づけられ、どんな大潮が押し寄せても沈まなかった。(現在の浮盃は、いつの間にか地続きになっている)。
幾日か後、徐福の一行は、ここを出発して北の方に見える山へ向かった。道という道はなく、一面青々とよしが茂っていた。行々子(よしきり)が声を立てて鳴いていた。一行は、よしを押し分け押し分けて進んだ。このよしの片方の葉だけが落ちたために、片葉のよしとなって、今でもそれが生えている。
よしの原が続き、道らしい道もなく、難渋したので、持ち合わせていた布を敷きながら、今の三重から水町を通り、北川副村の光法から、江上町、枝吉、そして紺屋町、柳町、呉服元町(金立さんのお下りの道)を通り、やがて山麓に分け入ったのが、金立村の入口であった。そこまでに敷いた布が1,000反に達したので、その地を千布と名づけたと伝えられている。
徐福の一行が、金立村の入口に到着すると、源蔵という里人が、ていねいに出迎えた。源蔵は、この辺の豪族で、酒屋を営んでいたが、邸宅も大きく酒などを出して、遠来の客をもてなした。源蔵には、お辰という美しい18になる娘がいた。
蓬莱の美酒に酔った徐福には、花にもまごう日本娘のお辰の風情に、若い血を湧かせ、お辰も、たくましい体に異国の服をまとった徐福に心を引かれ、二人は激しい恋に結ばれて、人目を忍ぶ逢瀬を楽しんだ。
やがて、源蔵に案内されて、薬草を探しに、山に分けいった。「ほんとうに、不老不死の薬は、この山にあるか」と尋ねる徐福に、源蔵は、「必ずありますから」と安心させて、方々を探し回ったが、なかなか見つからなかった。
ある日、二人は痛む足を引きずり頂上の裏の方に行くと、白髪童顔の仙人が、しきりに釜の中で何かゆでている。ニッコリ笑って、自分の方から「何のために、こんな所まで来たのか」と問いかけた。「実は、不老不死の薬草を探しているが、見つからず、困っている」と答えると、仙人はカラカラと笑った。「心配はいらぬ。この釜の中のものが、それじゃ。わしは千年も前から、ここに来て、こうしてこの薬を飲んでいるのだ。おかげで何年たっても年はとらず、この通り元気だ」と言って腰をたたいて見せた。
「この薬は、この山の横から谷あいまで、岩の間や大木の根などに生えている」と言って、取ったばかりの薬草を渡したかと思うと、立ち昇る白い湯気と共に消えていった。
二人は、大変喜んで、あちこち走り回って、たくさんの薬草を採集して、みんなで飲んで、若さを楽しむことができた。
徐福は、すぐにもこの薬草を始皇帝に贈って喜ばせたいと思ったが、海路は余り遠く、贈るすべもなかった。一行中には、500年も生きたと言われる者もいたが、いつの間にか死に絶えて、伝説の夢を追う人々の話の中にのみ生きている。
徐福が求めた不老不死の薬草は、「現在金立山に生えている黒蕗(くろふき)がそれである」と伝えられている。植物学上ではウマノスズクサに属するウスバ細幸と称するもので、(みちのね草)(谷アフイ)(みやぬな)などと言われている。
今史跡として残っているものは、搦の上陸点、金立神社下宮(今移転して搦の青年会場)、浮盃、寺井の井戸、片葉のよし、千布のお辰観音、源蔵屋敷の源蔵松などがある。
また、伝説にはいくつも言い伝えがある。
徐福は医学者で、長寿を願う始皇帝は、多くの者に医学を学ばせ優遇したと言われ、徐福もその一人という。
徐福の渡来も、単なる薬草探しではなく、日本に対する移民政策だと言う人もある。3,000人位の人が、徐市、徐名、徐林、徐福たちに連れられて、日本に渡って来て、農耕や漁法を教えて土着したり、他に移動したりして、方々に伝説を残しているという。
九州でも、先ず伊万里に着き、黒髪山に登って薬を探し、それから有明海に入り、竜王崎に来た。薬草のある所がわからない徐福は、「大盃を浮かべて、それが流れついた所で、薬草を求めよ」とのお告げを受けて寺井津の搦に着いたとも言われている。
また一説には、神武天皇のご東征の順路と共通点があるとして、日向を出発して大船団を率いて、男軍、女軍に分けて、東に向けて移動し、崗水門に着き、両方共に熊野に到着して、そこに留まって、多くの史跡を残したと言うのである。
神武天皇と徐福は、その通過した道順一帯から、弥生文化の遺物が出土した。神武も徐福も、同じ様に大きな弓を使用した。日本開国に出てくる神話と徐福の国の神話が同じであるという。神武と徐福は、歴史の舞台において、同じ時代に、同じ地に出現した卓越とした人物として、なかには同一人物論を説く学者もいる。

出典:わが郷土北川副町の歴史P142