福満寺102代の住持

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福満寺102代の住持

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■所在地佐賀市北川副町大字江上345
■登録ID2386

室町幕府が衰え、群雄割拠の戦国の世を迎えた。九州でも、九州探題の今川氏に対して、大友、少弐の両氏が手を握って対抗し、佐嘉地方でも、龍造寺氏を中心にして、攻防が繰り返されていた。
享禄4年(1531)大内義隆が、将軍の命を受けて、少弐氏討伐のために攻撃をしかけて来た。少弐資元、冬尚父子は、高祖城から多久梶峰城に退いて来たが、敵が綾部城(中原町)に攻め入ったので、ついに勢福寺城(神埼郡)に逃れて来た。
龍造寺家兼は、これを迎え、江上元種に守らせた。10月になって、大内勢が勢福寺城を包囲したので、家兼は和睦の申出を受けて、勢福寺城を明け渡した。しかし、大内氏が次々に少弐氏の所領を没収したため、12月29日に多久に走り、松法師丸(冬尚)は蓮池の小田資光を頼って、小曲城に入った。
大内軍は、なお手をゆるめず、武雄、上松浦などの豪族を合わせて、多久梶峰城を包囲したので、防ぐすべもなく、城を抜け出て、譜代の家臣今泉播磨守、窪、平原の3人を呼び、7歳になったばかりの元盛の後事を托して、自殺して果てた。そこで元盛主従は、北川副村江上の福満寺に身を寄せた。
その後、今泉播磨守は、雲水に身をやつして、諸国行脚に出て、少弐家の再興を計ったが、幕府が、再興を許さなかったので、ついにあきらめ、剃髪して仏門に入り、101代の住持となり、また元盛も仏門に入って102代の住持となって、余世を送った。今も、その墓が残っている。

出典:わが郷土北川副町の歴史P122

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