阿弥陀寺  

  1. 旧佐賀市
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阿弥陀寺  

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■所在地佐賀市木原二丁目18-12
■年代中世
■登録ID2353

【宗派】浄土宗
【開基・開山】不明
龍造寺家臣による天正時代(1573~1591)以前の開基で、約500年前と思われる。佐賀藩初代藩主勝茂公に追腹殉死した韓国人洪浩然の墓がある。
洪浩然は藩祖直茂公が朝鮮出兵の時、慶尚南道晋州色で筆をかついで逃げる子どもを見つけ、この子はきっと文学の才があるとつれ帰った人物で、勝茂公の学友となり、側近となって800石の重職についた。
勝茂公が江戸で死んだと聞いて、菩提寺の阿弥陀寺で追腹殉死し、異国人ながら立派な葉隠武士として称讃された。昔は今宿川から舟で墓砂を揚げていたという。
東京海城学園(海軍兵学校の前身)の創始者、古賀喜三郎海軍大佐の墓もある。寺内に観音堂があり多数の信者で講会が開かれている。

出典:わが郷土北川副町の歴史p131

洪浩然について
洪浩然(号は雲海・1582~1657)は朝鮮国の「慶尚道山陰」(現韓国慶尚南道山清郡)の出身で、1582年に晋州(現韓国慶尚南道晋州市)の「官人の子」として生まれた。文禄の役勃発の翌年、文禄2年(1593)4月の晋州城の戦いの際に、鍋島直茂軍によって捕えられ、佐賀に連行された(当時12歳)。その後、直茂・勝茂父子に仕え、長じて京都五山で数年間学び、帰佐後は御印役(藩主の印を管理する側近)の志波喜左衛門、茶人の薮内紹智らとともに、書家・学者として勝茂の側近くに仕えた。晩年に、朝鮮国への帰国を勝茂に願い出、一旦は許されて帰国の途についたが唐津境で呼び戻され、帰国を断念した。明暦3年(1657)3月24日に勝茂が江戸で死去すると、4月8日、その報に接した浩然は、この阿弥陀寺で追い腹を切った(殉死)。その直前に上今宿の自邸で「忍 忍即心之宝(忍はすなわち心の宝)不忍身之殃(忍ばざるは身のわざわい)洪雲海浩然七十六歳書之<印>」と書をしたため、子の六郎兵衛(二代当主洪安實)に与えた。
洪浩然は、現在では書家としても評価されており、文字の書き出しと止めの部分などが力強く大きくなる独特の書風から「こぶ浩然」とも呼ばれている。浩然の書は、頂法寺本堂(六角堂・京都市)の寺号木額や英彦山神宮(福岡県添田町)の銅造鳥居、與止日女神社(佐賀市)・徳善院(佐賀市)の石造鳥居などに刻まれている。

出典:文化振興課提供

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