弘生院

弘生院

■所在地佐賀市北川副町大字光法209
■年代中世
■登録ID2351

【宗派】曹洞宗
当寺は、700年来の古刹(こさつ)で、建保元年(1213)、人皇84代順徳天皇の御代、和田義盛が北条義時に亡され、その一族の和田八郎義胤は、身一つで危うく九州に逃れ、その際、十一面観世音菩薩(藤原光長の作)奉持して、この地を選び、真言宗の寺を建て、補陀山弘生院と名付けた。和田家一族の菩薩を弔うため自ら出家して、大観弘生法師と名乗り、大いに観音を信仰し、一般信徒の教導に努めた。
それから500有余年の後、享保8年(1723)、人皇第114代中御門天皇の御代、徳川8代将軍吉宗の時代、佐賀郡春日村、玉林寺第9世勅持賜大龍渭川禅師を当寺の法地開山に請じて曹洞宗に改め、今日に至っている。
その間、第14世祐孫和尚のとき、ほとんど廃寺になろうとしたが、当寺の由来にちなんで33身の観音の霊場を建設するほか法華8巻の1石1字を書いて、妙典法塔を建立し、加えて、幾多の樹木を植栽して、風致を整え、最近水子地蔵菩薩を建立し、多くの信徒の信仰を集めている。
第16世道智師は、大正2年長崎医学専門学校を卒業され、エキリの特効薬を調剤され、評判になって、よく売れていた。また、祐憲師は説法伝導に励まれていた。

出典:わが郷土北川副町の歴史p129

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