慶誾尼と握り飯

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慶誾尼と握り飯

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2308

 慶誾尼は龍造寺胤和の長女で隆信の生母であり鍋島直茂の継母である。豊臣秀吉が母の病気のため東上、ついで下向の際、名護屋の渡しを通った時のことである。慶誾尼は秀吉一行の接待のため、近所の農家から戸板を借り出し、青竹四本を立てて戸板をのせ、飯を固く握って土器に盛り、尼寺の道筋道端に出し置くように侍達に命じた。秀吉は通りがけにこれを見て「これは龍造寺が後家(慶誾尼)の働きに違いない。食料のない道筋で上、下難儀なところをこの心掛けは奇特である。」といって自ら握り飯を手に取り「武辺の家は女までこのように心掛けている。この固い握りようを見よ、土器まで立派だ」とほめたたえ、陶師を名護屋へ呼び寄せて諸将の用器を製作させ、肥前の焼物師の司であるという朱印状(免状)を与えた。その御朱印状には
 土器手際無比類 於九州名護屋可為用者也  二十六日 御朱印
    土器師 家長彦三郎
とあり、この陶師は高木瀬町瓦屋敷の家長彦三郎といった。秀吉一行が通過したとき、見物した者が、「太閣は小男で眼大きく朱をさしたようで、顔の色、手足まで赤く、華やかな衣裳を着て足半をはき、金の熨斗付きの大小の朱鞘を指し、刀の鞘にも足半一足結び付け、馬上の御旅行でお供にも駕籠に乗った者は一人もいなかった。」 と話している。(葉隠聞書より要約)

出典:大和町史P.607〜608