石田一鼎と下田

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石田一鼎と下田

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■所在地佐賀市大和町
■年代近世
■登録ID2298

 一鼎は名を宣之と言い通称安左衛門と称した。平氏の流れを汲む家柄で、三浦為久が木曽義仲征討に加わって戦功を立て、壱岐国石田郡石田邑を領して石田次郎又は壱岐判官といったのが石田氏を名乗った初めである。為久の子孫為奉が肥前国松浦に移り住み、その子孫為宣は龍造寺隆信の殊遇を受け、後に佐賀の多布施に住んだ。一鼎は寛永6年(1629)ここで生まれた。
 幼名を兵三郎と称し、学問が好きで15、6歳のころ仏教・儒教の書を広く閲読していたと言われ、17歳にして藩主に「大学」を講義するほどで、当時では佐賀藩第1の学者と言われていた。藩主勝茂の近侍を勤めたが、勝茂の死後はその遺命によって2代藩主光茂の相談役として輔佐の任に当たった。
 寛文2年(1662)33歳の時、私利に走る一老臣を列座の中で罵ったこともあって、藩主光茂の怒りを受け、小城藩主鍋島直能に預けられ、松浦郡山代郷(伊万里市山代町)に流された。ここに幽居すること7年余り、寛文9年(1669)に許されて佐賀に帰ったが、間もなく川上村平野に行き、後、大工坂口某を連れて梅野の下田に移り閑居した。延宝5年(1677)48歳で髪を下し一鼎と改め、下田処士、願溪愚璞と号した。
 下田での一鼎の生活は単なる閑居の悠々自適ではなく、忍苦の毎日であり厳しい修行であったと言われている。時には一鼎を慕い閑居を訪れて教えを受ける者もあり、山本常朝もその1人であった。又ある日弟子が台所に行くと、釜の中には蜘妹が巣をはっていたので不審に思い、「いつ食事を取られたか」と尋ね、更に夜具もないのを怪しんでいると、「怪しむなかれ、ここは山中だ。果実もあれば野菜もある、釜を用いる要なし。夜具としては茅類が簇生しているので蒲団の要を見ず」といった。又弟子の下村三郎兵衛にも「寝られぬ時には寝ず、寝られる時に寝る、食われぬ時には食わず、食われる時に食う」といっている。「永々の浪人にて、酒などもまいるまじく」と尋ねたら一鼎は「山中にて見たこともなし。それよりは飯もなし、麦・そば・ひえなどを釜に入れ置き、望みの時に食べ申し候。汁も食べたことなし」と答えたそうである。
 このような忍苦に堪えた一鼎であればこそ、山本常朝に対しての戒めの言葉に
 「一鼎申されけるは、よき事をするとは何事ぞというに、一口にいえば苦痛さこらふる事なり、苦をこらえぬは皆悪しきなり。」とある。剛直一徹の一鼎は下田閑居によって磨かれ幅のある人柄、極貧の中にあっても窮乏を楽しむ境地を開いた。「上長を敬うのは礼であって、その礼を守らないのは道に外れる」とか、「世の中には頭の働きの早くない人もある。その人が埒があかぬといってあせり、横からその仕事に手出して裁こうとするのは必ず外れる。なぜならば人が立てた計画の中で他の者が自在に働けるものでないからである。」とも言っている。
一鼎は佐賀武士道の開祖ともいうべき人で、郷土の下田で書いた「武士道要鑑抄」は葉隠の先駆をなすもので、葉隠は武士道要鑑抄の説明書と言われるのもそのためである。要鑑抄の中に
 「士の意地(面目)を失はしむるは皆敵なり。その敵には六種あり。一には睡眠、二には酒食、三には好色、四には利慾、五には高貴、六には功名。この六種は外の敵なれば防ぎ易し。外の敵を見る時内の敵起り、内の敵起る時誓願の剣をもってこれを断てば、内の敵起ることなし。内外敵なくして主人の御用に立つことが出来る。」
 と述べている。時代は違ってもその精神は今の時代にも生きる尊いものではなかろうか。一鼎は下田に閑居すること24年間、元禄6年(1693)の12月21日(新暦翌年1月16日)年46歳で死去したが、墓は下田と佐賀市与賀町精水月庵とにあり、下田の庵跡にある苔むした自然石の墓石には「梅山一鼎処士、圓室貞因大姉」と刻まれ、夫婦が祀られていて、付近の人々はこの祠を「一鼎さん」と呼び、「勉強の神様」として尊んでいる。国道端には肥前史談会の標柱が建っていて、道行く人々に何事かを呼びかけているようである。大正4年(1915)11月10日大正天皇の即位の御大札に当たり、佐賀藩武士道の興隆に尽くした功を追賞されて正五位を贈られた。

出典:大和町史P.287〜290

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