名尾紙と納富由助

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名尾紙と納富由助

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2291

 名尾障子紙の名は古くから有名で、特にその耐久力の強さは稀であるが、優美さの点でやや欠けるので、今日では家庭用としては愛好する者が少なくなり、美しく風雅な趣向を取り入れた他県の紙におされ気味である。しかしその耐久性を利用する温床用等の農芸用として珍重されている。
 もともと大和町名尾地区は山に囲まれ耕地面積が少なく、農家の生活は困難であったので、何かの副業を盛んにしなければという意向が有志を始めとして強かった。そこで元禄3年(1690)名尾村の納富由助は、筑後の溝口村(筑後市)で僧日源の教えを受けること5か年、すいて作る(漉造)製紙法の技術を苦心の末に習得して名尾村に帰り、村民に伝えたのがその始めといわれている。
 これより名尾村では農業の副業として今日まで連綿として継続して来たのであるが、藩政時代には年々藩主は資金を給与して国札(藩札)の紙や役所の用紙等を製造させた。しかし維新後は年々衰微してきたので、初代佐賀県知事の鎌田景粥はこれを奨励し、後に名尾製紙組合を設けさせると共に、有志と計って元祖納富由助の頌徳記念碑を建設し、自ら題字を揮毫し、当時の佐賀郡長家永恭種が碑文を撰書して、農商務大臣西郷従道もこれを援助した。
 その後、世の中が進歩するにつれて又旧式の製紙はあまり歓迎されず、機械による大量生産の他県の物に圧倒され、販路も縮少されてきた。そこで当時名尾紙の製造家であった川浪正隆はこのことを憂え、自費で先進地を視察すること数回、明治33年(1900)名尾製紙養成所を設け、器具機械の改良、使用方法の伝習をさせ、その発展を図ったので数倍の生産力となり、九州製紙業界にその名を高めた。
 しかし、今日では近代的な進んだ大企業により豊富に出回ってきたため、再び衰えて、名尾紙の製造を続けている家は数軒となっている。

出典:大和町史p.303〜305

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