大和町の浮立

大和町の浮立

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2286

辞典によると、「風流」と書いて「ふりゅう」と読み、鎌倉から室町時代にかけて流行した芸能の一種。さまざまの仮装をし、歌や拍子に合わせて、手振りおもしろく踊った群舞。今日でも郷土芸能の中に見られ、祭礼の山車や鉾、盆踊りなどは代表的、とあり。また、福岡博氏著の佐賀豆百科に「浮立のいわれ」として、「もともと浮立は風流という意味から生まれたもので、平安時代から鎌倉時代にかけてはざん新とか、奇抜といった意味に用いられた。具体的には、奇抜な格好をした行列やハヤシ物を「風流」と呼んでいた。特に室町時代からは動きの活発な、当時としてはモダンな踊りが風流として生まれてきた。例えば、宗教的な念仏踊りではおもしろくないので、それが大衆化され盆踊りに変わっていくようにすべての民俗芸能は昔からそれを保有しようとする意志と常に新しいものを取入れ、自分たちや観客に興味あるものにしようとする性質がある。だから一口に浮立といってもその呼び方や内容もまちまちである」と述べておられる。
 大和町内で今も浮立が続けられているのは平野と池上、大願寺、久池井、楢田である。平野や大願寺の浮立は天衝舞(てんつくみゃあ)と呼ばれるもので鐘浮立の一種であろう。鐘浮立といっても同じ大きさの鐘を打つものや、大きさも形も違う鐘を打つ浮立などいろいろあって、その内容も異なるものである。衣裳を美しくし、天衝舞などを伴い、鐘浮立はその伴奏役を務めるものと解してよかろう。鐘浮立の歴史や起源は判明しないが、全国的な浮立の発生からみて、だいたい鎌倉時代の末ごろと見られている。天衝舞は佐賀市周辺を中心に伝承されているもので、玄蕃一流浮立とか、天月舞、天竺舞などとも呼ばれ、踊り手が踊る時に頭にかぶるかぶり物の名称からきているということである。天衝舞を玄蕃一流の浮立というのは、佐賀市神野町掘江神社の社記によると、
「弘治二年(1556、室町時代末期)五月、掘江大明神の雨乞いの祈願に、神職の山本玄蕃が始めたと伝えられ、自分の年令の四十七才にちなんで大もりゃーし(大太鼓)二十、小もりゃーし(小太鼓)二十七という簡単な編成で、日鉾(長柄傘)数本はすべて女性の帯で飾り、玄蕃一流の浮立を始めたが、その後佐賀郡、神埼郡の各村の雨乞いや、産土神社の祭にこれを献ずるようになった。」
 ということである。

出典:大和町史P.815〜817