荒神琵琶

荒神琵琶

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2284

 九州地方は平家にまつわる伝説が相当に見られるようである。平家の事は平家物語によって広く大衆に知られたが、その平家物語も現在のように単行本を読むのではなく、琵琶法師によって広められたのである。「祗園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす……」の序文は名文として知られているが、このような名調子の文は琵琶法師の弾き語りによって知られていったのである。琵琶は中国・朝鮮・日本などにある撥弦(弦をはじいて音を出す)楽器で、中国では漢代(紀元前後)にあったもので、日本に伝来してからは日本独自の発達をしてきたものである。
 日本のものは大別すると、古代琵琶(雅楽)、荒神琵琶(盲僧琵琶)、平家琵琶(平曲)、近世琵琶(薩摩琵琶・筑前琵琶)になる。古代琵琶は奈良時代(710−780)に中国から伝来したもの
で、四弦、五弦、阮咸の3種がある。このうち四弦はペルシャのパルパットが中国では漢代に伝え、それが日本では平安時代に伝来してきたもので、もっぱら雅楽に用いられるようになった。荒神琵琶はこの楽琵琶を伴奏に「地神経」というお経を唱える盲僧用のもので、現在ではわずかに九州地方にその余命を保っているに過ぎない。平家琵琶つまり平曲は、鎌倉時代の始め盲人であった生仏という人が語り始めたとされ、のち一方流と八坂流に大きく分かれ、南北朝時代には一方流に覚一(明石検校)が現われて隆盛となり興行されるほどであった。琵琶は雅楽の琵琶を小形にしたもので、弾き語りであり、語りの合い間に弾奏するものである。語りは声明(仏教音楽)の旋律影響を受けたもので、節をつけない白声と節を持った引句に大別され、謡曲・浄瑠璃など日本音楽語り物系譜の祖となった。一方流の平曲はさらに京都の波多野流、江戸の前田流に分かれ、江戸時代にも続いたが、明治の盲官制度廃止とともに衰微し、今日では名古屋・仙台に存続するのみである。九州地方に入ってきたのは吉野時代で、このころは平曲全盛の時代といわれている。佐賀県では「かま節」といって5、60年前までは、座頭が琵琶を語っていた。この平曲と平行して盲僧の間に地神経をこの琵琶の伴奏であげるようになった。つまり平曲も地神経も同一人が語ることが多く、いわば平曲は芸能的演奏であり、地神経は宗教的座頭としてのものであったのである。この盲僧による地神琵琶の流れを「玄清法流」といい、今日でも全九州の本山が福岡市西高宮の成就院にある。

出典:大和町史P.799〜801