真島次郎

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真島次郎

■所在地佐賀市川副町
■年代近代
■登録ID2072

  (1885−1925)
 昭和43年11月17日正午、川副町鰡江の東泉寺で、元上海同文書院教授故「真島次郎先生顕彰碑」の除幕式がおごそかに行われた。
 当日は小春日和の天高く晴れ渡った日であったが、遠く東京などからも昔の教え子たちが集まって、真島次郎教授のありし日を偲んだのである。
 真島次郎は明治18年3月3日、川副町大字小々森字久町で生まれた。父は真島覚右衛門、母はトラ。葉隠武士の血をひく士族であった。兄の真島茂輔も早くから教職にたずさわって小学校長や視学をした教育界の偉丈夫であった。次郎は明治31年佐賀中学校に入って35年に卒業したが、この同窓には海軍大臣となった吉田善吾大将、京大教授高田保馬博士、県知事や代議士となった中野邦一、歌人中島哀浪、医者で粋人だった後藤道雄博士、毎日新聞の副主筆となった樽崎觀一など多士済々。また陸士陸大を出たが、大正3年の日独戦争で戦死した犬井道出身の横尾平少佐も同窓であった。
 真島次郎は佐中を出てからすぐ上海東亜同文書院の2期生として入学し、まだ日露戦争中の38年3月卒業と同時に、院長からの求めに応じて同校の助教授となった。だが頭脳はずばぬけても体が弱く、病気のためいったん退職して療養後、明治43年教授兼幹事として復職、書院経営の最も困難な時代、根津一院長を助けたが、病気を克服することができず、43歳の若さで大正14年12月28日、上海で客死した。
 真島次郎は正統な北京語教育の天才的学者といわれ、院の卒業直前、犬養木堂が中国漫遊をした際も、根津院長の推薦で真島が北支、中南支を案内して通訳をしたという。真島が20年近く東亜同文書院教授としてのライフ・ワークは、正統正確な中国語を教えることにあった。真島が執筆編集して、書院の教科書に使った「華語萃編」は中国語教育の宝典として日本一の折紙をつけられた。その厳格な教授ぶりは、書院の学生たちの間に「英語にも四声ありと真島言い」との川柳があったことでも想像がつく。
 人間みな40数年も経つと昔のことなど、一切合切忘却の彼方に去ってしまうものだが、学恩の高く深かったことを思い起こした東亜同文書院の卒業生たちが、真島次郎教授を追慕して顕彰碑を建設したわけである。町民の誇りと同時にその遺徳を偲ぶべきだろう。

出典:川副町誌P.1001〜P.1003