櫛山 叙臣

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櫛山 叙臣

■所在地佐賀市川副町
■年代近代
■登録ID2071

(1843-1910)
 櫛山叙臣は、佐賀藩士櫛山弥左衛門の二男として、天保14年(1843) 5月2日、現在川副町の広江で生まれた。長男の石井家を継いだ貞興より3歳若く、通称を弥助といって櫛山家を継ぐことになった。幼少年時代は藩校の弘道館で学んだが、修業後長崎の香焼島に駐屯して佐賀藩の海防警備に当たった。明治維新の戊辰戦争には26歳で出征し、東北の各地で転戦した。維新後は佐賀藩の軍務係や国学寮監などを歴任し、明治4年には上京してフランス式教練も修業した。だがこの年の廃藩置県で士族たちも定職を失い、おまけに明治6年秋の征韓論の決裂から、征韓の一番乗りをしようと気勢をあげていた佐賀の士族たちが特に失望と憤慨をしたわけであった。佐賀の征韓党が正式に名乗りをあげたのは、明治6年12月23日、中町にあった煙草屋に25人の同志が集まってからである。協議の結果、中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八、櫛山叙臣の4人を上京させ、征韓論の決裂から参議をやめた江藤新平と副島種臣に面接し、佐賀の士族たちの士気を鼓舞、指導するためその速やかな帰郷を懇請させることにしたのである。4人は12月24日出発、副島、江藤に会って翌明治7年1月16日、元町の小松屋で上京の報告会を開いたが、そのときは70数人が集まった。この1ヵ月後の2月16日未明に佐賀戦争は勃発したわけである。佐賀戦争では小隊長格となって奮戦したが、敗戦後は鹿児島に走り、日向の飫肥から小倉処平のはからいで江藤新八の一行と共に四国の宇和島に渡った。宇和島で一行9人は3人3組にわかれ山の中を高知に向かったが、山中一郎、中島鼎蔵といっしょになった櫛山叙臣の一行は途中、捕吏につかまろうとしたところを中島が捕吏を斬って逃げたりした。それでも結局3月23日、櫛山は中島と土佐郡種崎、山中は24日幡多郡佐賀駅(中村)で捕縛となったのである。乱後、佐賀裁判所では4月13日付の判決があった。
  逆徒に與みし、小隊を指揮し、官軍に抗敵する者、
  従の情尤も軽さに擬し
  除族の上懲役三年 櫛山叙臣
 この懲役3年も母の病気が理由で2年後に特赦となったが、明治10年西南の役が起こると、広江の家に帰ってきた実兄の石井貞興にまたついて西郷軍に走ろうとし、母に止められたことは石井貞興の項で書いた。明治9年から櫛山は、後に西川副村にあった盈進小学校の教師となり、その後南川副の犬井道小学校(後に知進小学校と改名)に移った。その後、佐賀中学校で漢文を教えること2年。更に村の戸長や八ヵ村組合立高等小学校長など、教育に従事すること前後十数年明治43年5月2日没した。享年69歳。櫛山叙臣には清太郎(夭死)と次郎の二男があったが、二男が家を継がずに上京したため、高木瀬町長瀬の家は弟の袈裟吉郎が継いだ。石井貞興以来、果樹園のある家はこの袈裟吉郎の孫の櫛山孝氏が経営している。

出典:川副町誌P.1000〜P.1001