石井貞興

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石井貞興

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■所在地佐賀市川副町
■年代近代
■登録ID2069

(1840-1874)
 石井貞興は天保11年(1840)3月、佐賀郡広江村で、佐賀藩士櫛山弥左衛門の長男に生まれた。幼名が乙次、大作、長じて竹之助といった。本家石井忠克の家を継いだため石井姓を名乗り、櫛山家は次弟の叙臣が継ぐことになったのである。少年時代は枝吉神陽の塾に入ったが、後は駄賃小路にあった石井松堂の純粋社で経史を学んだ。武技の鍛練にも熱心であったが、特に槍術と馬術がうまかったという。明治維新の戊辰戦争にも出征して武威を奮った。明治2年3月末、藩政改革のため帰郷中の副島種臣といっしょに上京したが、8月には徳久恒敏と離京して鹿児島に行き、2人とも藩校の造士館に入って勉強した。2人は特にここで桐野利秋、村田新八と親しくしたが、これが佐賀戦争後2人とも桐野に匿まわれ、西南の役に参加した因縁となったわけである。鹿児島にいること約半年後、2人は前後して佐賀に帰ったり、また上京したりしたが、その後石井は佐賀藩庁の少参事となった。だがお役所仕事は石井に向かなかっただろう。「士族の土着」を主帳し、現在高木瀬町の長瀬に移って果樹を栽培しながらもっぱら晴耕雨読の野武士的生活を続けた。この果樹園は後に三男の石井力三郎退役海軍少佐も続けたが、現在は一族の櫛山孝氏が経営してある。「武士の商法」ならぬ「武士の農法」で収入の実入りがなかったためか、明治6年2月、再び廃藩置県後の県庁に入って権典事から大属となったが、9月の征韓論の決裂から佐賀も物情騒然となった。明治7年2月佐賀戦争が勃発した。石井は県庁に勤めた関係もあって、県庁に保管してあった民積金を借り入れたり、また旧藩知事家禄代金の残りから2万5千円を借り入れるなど軍資金の調達に当たったのである。佐賀戦争後、石井はいったん広江の生家に帰って母親に別れを告げ、2月24日、この広江から海路鹿児島に向かい、阿久根に上陸して前記のごとく、鹿児島の吉田村郡田の炭焼小屋に桐野利秋から徳久恒敏と2人匿まってもらった。明治10年2月、西南の役が起こると2人とも西郷軍に加わって北上、八代まできたとき、桐野に頼んで佐賀の家族との別れや、また佐賀の同志の決起を促すために海路佐賀に帰った。結局2人とも家族との別れだけでまたすぐ西郷軍に戻って各地を転戦したが、徳久は4月6日八代の萩原堤で戦死。石井は可愛岳突破中、深い谷底に落ちて重傷のところ9月6日捕縛され、10月26日長崎で斬罪となった。35歳。墓は高木瀬町長瀬の東光寺にある。
 石井の妻サエは久米邦武博士の妹であったが、夫妻の間に雄太郎(夭死)、八万次郎、力三郎、タツ、ヨネケサ、キクの三男三女が生まれた。八万次郎は一高を経て東大理学部(地質学)を卒業したが、佐賀12代藩主に当たる鍋島直映と特に親しく、侯爵のお世話で元森有礼文相の屋敷跡、現在自民党本部のある永田町に永く住んだという。その一人娘は三日月町出身の水田東大工学部教授に嫁した。末娘のキクは大正13年の総選挙に当選した加藤十四郎代議士に嫁したが、その長男日吉は小城中学校から上海同文書院を卒業し、永く大陸で活躍した。昭和52年没。この妹野田テツさんは神埼町飯町郵便局長に嫁している。
 なお石井の娘一人は広江の今村要吉に嫁し、長男の今村実が戦前、大阪商船の梅丸船長をしたり、二男が台湾製糖に勤めていたが戦後の消息は不明。

出典:川副町誌P.995〜P.997