辻演年

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辻演年

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2068

(1819-1896)
 川副町犬井道の海童神社境内に、園田二郎兵衛の記命碑と並んで、辻演年の記念碑が建っている。辻演年は文政2年(1819)東与賀村で佐賀藩士の家に生まれ通称を忠六といったが、川副町地先の干拓工事にも不朽の功績を残した恩人であった。郷土の歴史的人物として忘るべからざる存在だろう。辻演年は佐賀藩の搦方役人として弘化3年(1846)、犬井道地先の別段搦の干拓工事に采配を振って以来、明治21年同じく犬井道地先の無税地搦の干拓造成まで、この43年間に与賀村地先の大搦、大詫間の元治搦の修築、犬井道呉服の石井樋の改築などをした。このほか長崎の沖ノ島と伊王島の警備と工事監督、稲佐と深堀の砲台建設もやり、また杵島郡白石の明治搦の築堤監督に全力を傾けてこれを見事に完成したことなどがあった。有明海北岸で数百町歩の干拓によって美田を作った功績は成富兵庫茂安に次ぐ佐賀県開拓の功労者といっても過言ではなかろう。明治29年、数えの78歳で没したが、嗣子辻武一郎さんの男の子は長男が陸軍中将となった故辻演武氏、三菱社員として戦前から海外で活躍した故辻忠敏氏、故辻義人氏や、広江の銘酒「窓の月」醸造元の福岡家の婿養子となった福岡日出麿参議院議員である。辻演年は亡くなる7年前の明治22年6月22日付で、上質の名尾紙に自分がたずさわってきた干拓と開墾の経歴を書き残したのがあるが、漢文の非常な達筆と名文といってもよかろう。この一部を平易に意訳すると、佐賀藩が干拓に力を入れたことは代々久しかったが、特に力を入れられたのが10代藩主の鍋島閑叟(直正)であった。閑叟は自ら開墾地と干拓工事の現場を巡視されたこともしばしばあった。このうち、犬井道と田中(明治22年の町村制実施でこの二集落は合併し、大字犬井道となった)の2村は戸数の多いわりに田地が少なく、過半数のものが漁師をしていた。そこで弘化2年(1845)、藩庁に別段搦局が設置され、局長格の田代某ほか7人がこの干拓工事の監督をすることになった。(これが犬井道の弘化搦の先にある別段搦である)この別段搦は、最初材木と土塊だけを使ったため、大潮にはすぐ崩壊して失敗に終わることが多かったから、こんどは周防国(山口県)から数隻の石船と石工を雇ってきた。100貫(1貫は3.75㎏の重さ)の石材を亀の浦から運んできて、弘化3年(1846)春から工事をはじめ、自分がこれを監督、同年10月いちおう完成したが、弘化4年秋の台風で再び決壊した。そこでまた修復をして4年後の嘉永4年(1851)やっと竣工したので、これを嘉永搦と名づけたのである。
 次に自分はこれより先、嘉永2年の夏、船津川から白鳥井樋までの与賀村地先を干拓し、嘉永3年の冬に竣工したが、この当時、外国船が日本に渡航することが月々さかんになり、佐賀藩庁でも長崎防衛のため、新たに増築局を設置し、自分がこの任に当たることになった。増築局は長崎の沖ノ島に本局を置き、伊王島に分局を設けたが、嘉永4年に自分もこれに入った。砲術研究家の本島藤太夫が指揮をとったが、自分は田代某ほか3人の役人と石工長以下を監督し、沖ノ島から崎雲-四郎島間の道路を作ったり、また四郎島の山頂に砲台を築くなど、難行苦業を重ねたあげく、やっと嘉永6年の冬にこれを完成したのである。 この前、嘉永搦は自分が長崎に赴任中、代官の福岡某が資金を支出し、武藤某が工事の監督を続けたが、安政元年(1854)10月、自分が長崎から帰ってこれに代わり、安政2年正月から9月までの間に潮路を堰き止めてこれを新地局に引き渡した。その後、自分は大詫間と与賀村の大搦に手をつけたが、安政5年の春には犬井道の無税地搦が竣工し、同年12月には与賀搦が竣工したので地主を決めた後、自分はもっぱら犬井道地先の干拓に力を集中するようにしたのである。
 万延元年(1860)の春は、大詫間の五番搦を干拓、文久2年(1862)の春は、大詫間の大搦を干拓したが、犬井道といっしょに文久3年の春は、2つともいちおう竣工した。このため同年4月12日、干拓現場を引き揚げて再び長崎に赴任し、稲佐と深堀に各2ヵ所、その他2ヵ所に砲台を築いて7月佐賀に帰った。また元治元年(1864)6月、自分はまた長崎に赴任して慶応元年(1865)2月まで、各地に据え付けた砲台を壊したり、また築いたり、慶応3年もこのようにして長崎と佐賀を行ったり来たりしたが、慶応3年秋の台風で犬井道地先の干拓地が3ヵ所も決壊したため、この修復に9月から翌明治元年(1868)の3月までを費やしたのである。またこの間、犬井道の呉服の石井樋の堅固なのを見て、その作図を他の場所にも利用したりした。
 明治維新の戦争には、自分も出征することになっていたが、川副代官の池田某が、犬井道地先の3つの搦は辻を除く他のものには代え難いと藩庁に上申したため、自分もいちおう軍務を解かれたのである。その後、自分は代官所の出納長から明治2年4月録事、明治3年10月郡務史生となって干拓と堤防の事務をとったが、明治4年10月、廃藩置県後の伊万里県庁に出仕、5年4月にこれを辞職した。
 5年9月、自分は鍋島直大元藩知事の命令で杵島郡白石の干拓を監督することになったが、そのときは堤防の上に掘立小屋を建てながら暮らした。ところが明治7年8月の台風で堤防が決壊し、小屋もまたつぶれて自分は命からがら這うようにして村里に避難したのである。自分といっしょにいた小使は可哀そうに溺死した。自分は帳簿などの重要書類も流失した責任上、直大に上書して罪のくだるのを待ったが、直大は何よりも命に別条がなかったことを喜ばれた上、15円の御見舞金までくだされたのである。
 その後、明治7年佐賀戦争で除族となった人達のため、干拓地入植の論議があり、また授産搦の問題などもあったが、自分は犬井道地先の無税地搦の修復と、明治19年8月の台風による干拓地の決壊修復に一生懸命であった。思えば28歳のときから43年間、生涯を干拓一筋に自分は生きてきた。最初は太左搦の西側にわずかの干拓地しかなかったのが、今日では至るところに干拓地の美田がふえたのである。これもひとえに鍋島閑叟の賜物と思う。願わくば、自分の子々孫々が、堤防の補修などを毎日心掛けて怠らないよう、この文書を書き残したわけである。以上が辻演年の干拓経歴書である。まったく干拓一代男のサムライが辻演年であった。

出典:川副町誌P.992〜P.995