八並蓼川

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八並蓼川

■所在地佐賀市川副町
■年代近代
■登録ID2067

(1819-1883)
 八並蓼川(通称は次郎助、諱は行)は川副町出身者ではないが、藩政末期の4年間、川副上、東、下三郷と与賀二郷を支配した代官であった。佐賀藩が旧制の大庄屋を廃止して、上佐嘉、与賀、神埼、三根、養父、白石(現在の北茂安町にある)、横辺田(大町町)、皿山(有田)に代官所を新設したのは8代藩主鍋島治茂の寛政10年(1798)であったが、この2年後の寛政12年、川副三郷に与賀二郷を含めて三重に代官所を設置した。川副与賀南郷の最初の代官は福井甚兵衛であり、最後が明治維新後就任した副島義高(謙助)であった。副島義高は佐賀戦争で梟首となった島義勇の実弟であり、次兄の重松基吉と実兄弟3人が佐賀戦争後斬首となったのである。八並蓼川が川副与賀郷の代官をしたのは文久3年(1863)11月から、慶応4年(1868年、9月8日から明治元年)正月までの足掛け6年、まる4年余でいちばん長かった代官だろう。酒と漢詩を作ることが道楽で、その生涯に1710首の漢詩を作ったが、このうち三重の代官時代に作ったのが72首あり、当時川副町一帯の風光と農漁民などの生活もこれで偲ぶことができる。漢詩や文章などからみて温厚篤実、心のやさしい代官であったと思う。八並家は嵯峨天皇の皇子源融が元祖で、1000年程前むかしの正暦年間、肥前に下向して上松浦の八並領主となったのが祖先という。後に龍造寺-鍋島家に仕えたが、蓼川は文政2年(1819)、佐賀の鬼丸に生まれた。16歳で松永塾に入り、23歳のとき江副長風と肥後に遊学し、近藤英助(淡泉)に入門した。同窓には徳富蘇峰の父徳富子柔などがいた。3年後、帰落して長崎香焼島駐屯を命ぜられ、翌年弘道館内生寮指南役から閑叟公御側役兼奥御小姓となった。弘化4年、29歳、藩主直正に隨従して江戸藩邸詰となり、傍ら佐藤一斉に師事して陽明学を学んだ。安政5年(1858)40歳で佐賀城内二の丸で藩主の御附頭兼御補導役、文久2年(1862)長崎香焼島屯営監軍、文久3年、京都佐賀藩邸御留守居役、禁裏守衛隊長を勤めた後、同年11月帰藩後直ちに川副代官を拝命した。慶応4年(1868)正月8日、関東征討北陸軍先鋒参謀を拝命、北陸道から江戸に入り、続いて藩主鍋島直大が総野鎮撫の命を受けると宇都宮を駐屯して宣撫工作を続け、明治2年9月帰藩して弘道館教諭を拝命、更に藩庁の権大属として西部三郡の郡務を管掌したが、明治4年藩主直正が亡くなると、一切の職を拒絶し、直正の川上の別荘であった十可山房に立て籠って晴耕雨読を続け、明治16年11月6日、65歳で亡くなった。墓は神埼郡三田川町箱川の妙雲寺にある。
 昭和12年10月、長野県居住の末子丼口益吉が、蓼川の遺稿を整理し、「蓼川遺稿」正続2巻の和綴本を出版された。ここには続篇に納められている川副官舎雑咏72首のうちから数編を紹介した。
    甲子三月 携家室川副官舎
 微力以何報 君恩如海深 携家行郭外 奉命到江潯
 雨歇雲帰岫 風暄鳥繞林 但因城市遠 官舎亦諧心
  「大意」甲子は文化元年(1804)、自分は微力で深い君恩に何をもって報いるか。家族をつれて城外、早津江川の畔りに住むようになったが、雨がやんで雲も晴れ、風も暖かくて鳥が林を飛びまわっている。城外の遠い官舎もまた自分の心にかなう。
   雑吟 二首
 昨日東阡偏 雨 今朝西陌復祈晴 祈晴祈雨君休恠 関意郷中四寓氓
 作官叨莫自軽身 吏卒由来窺笑顰 況復令禁須珍重 恐傷七十二村民
「大意」昨日は東の田に雨の降るのを祈り、今朝は西の田のため晴れるのを祈った。こんなことをしても君怪しむなかれ、自分の気持は4万の村民を思う。代官となっても猥りに軽々してはいけない。役人はミャースをつくのが好きであり、こんど贈物が禁止となったから、このため自分は72村の村民が傷つくことを心配している。
   秋日経詠
〇時危諸公皆苦思 年豊県令独寛情 村々積稲高於屋 日暮風傅打餅聲
○養病旬餘無厭食 思民夜半不安眠 紙 曉發霜如雪 翁嫗相携耕麥田
○紅樹青林落照斜 炊烟欝々幾農家 年豊官舎閒無事 独倚欄干数暮鴉
○芥禾成稲々成粳 磨簸丁寧輸禀倉 倉吏休瞋俵粧悪 憐渠苦殺幾心膓
「大意」時代の危機で諸役人は苦しんでいるが、自分は豊年でゆったりした気持である。村々では稲を軒先より高く積み上げ、夕方には餅をつく音を風が伝えてくる。
10日余り病気をしても食べ物はうまかったが、郷民のことを思うと夜もよく眠れなかった。障子をあけると霜が真っ白で、爺さん婆さんたちが揃って麦田に行くのが見えた。木々に夕日がさし、夕餉を炊く煙か何軒かの農家から立っている。代官所は面倒なこともなく、自分はひとり手摺によりかかって夕暮れのカラスが何羽かを数えた。苗から稲、稲から米となってこれを倉庫に運ぶが、蔵役人は米俵の作りが悪いといってとがめずに彼等の心労をいたわってやるがよい。

出典:川副町誌P.989〜P.992