古賀精里

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古賀精里

■所在地佐賀市川副町
■年代近世
■登録ID2064

(1750-1817)
 「寛政の三博士」、また「寛政の三助」といわれた学者がいた。柴野栗山(彦輔)、尾藤二洲(良助)と佐賀出身の古賀精里(弥助)の3人がこれであった。古賀精里は一般に佐賀城下の精町(現在の与賀町精小路)生まれとされているが、古賀精里が寛政12年、幕府に提出した家系図によると、「寛延三年(一七五〇)庚午十月廿日、肥前国西古賀村に而出生」と書いてある。(西村謙三編著『古賀穀堂先生小伝』)
 この西古賀の生家は、昭和初年まで坂本敬三さんが住んでいたところという。精里が分家の際、西古賀村の4字をとって上下2字の西村を本家、なか両字の古賀を分家の姓とした。本家の西村氏は後に現在龍谷学園の東側にある十間端に移り、古賀精里は精町で育ったと伝えられる。古賀精里が亡くなったのは文化14年(1817)で、享年68歳であった。
 古賀家の先祖は漢の霊帝といわれた。その子孫が日本の甲斐国(山梨県)に住んで帰化し、その数代後の左兵衛時連が筑後国三瀦郡の古賀村に住んだから古賀の姓を名乗ったという説もある。左兵衛時連の二男の右兵衛尉家時が隆造寺隆信に仕え、隆信といっしょに島原の戦争で戦死した。家時の子の時貞から代々鍋島家に仕え、鍋島舎人隊長の下で下級武士の手明鑓となった。時貞から何代か後の古賀安清から忠清、和作を経て忠清が生んだ五男二女の長男が、すなわち古賀精里である。安清、忠清、忠能の墓は佐賀市紺屋町の無量寺にあるが、天明元年(1781)4月廿日、82歳で亡くなった精里の祖母に当たる。精里の祖父和作の妻(岩田與七の娘)の墓は川副町鰡江の浄安寺にある。法名は妙規。古賀家は代々太左衛門を名乗り、城原党の門閥として遇された。
 古賀精里は最初号を訥斉、後に精里と改めた。名は弥助、姓は劉、氏が古賀、幼名が文太郎、諱が樸または朴、字を淳風といった。父は忠能、母は牟田口氏。父の忠能は佐賀藩の戸籍吏や蔵方録事や歩卒隊長などをした。
 明和3年(1766)、17歳のとき、精里は8代藩主鍋島治茂の実兄鍋島主膳の執事となったが、病気のため辞職し、城内三の丸で保養を続けた。ついで治茂が藩主となったとき、藩中に学識の高いものが少なかったことから、精里を起用して京都や大阪に遊学させることにした。これは安永3年(1774)、精里が25歳のときである。
 鍋島8代藩主の治茂は天明元年(1781)、佐賀に弘道館を建てた名君であった。遊学した精里は、京都で福井小車、西依成斉、大阪で尾藤二洲、頼春水と交わった。
 5年後の安永8年(1779)、京阪から帰国した精里は佐賀で程子、栄子の経学を講義したが、藩主治茂もこれを聴講してその名講義に感服したという。当時は佐賀の藩中でも王陽明や国学、古学など、いろいろの系統の学問があったが、精里がこれらを排撃して程朱の学を藩学に統一したのである。
 安永9年(1780)、精里は手明鑓頭役から諸役相談役格。天明元年(1781)、弘道館の創設でこの主任教授となったが、藩政の改革刷新にも蛮勇を振った。寛政3年(1791)、藩主の江戸行に随行したが、翌4年、幕府が昌平黌で経学を講義させた。その後、寛政7年、幕府の召命があり、これを3回も断ったか、再三の召命で寛政8年(1796)、江戸に上って幕府の儒者衆から12年学問所教授となり、前記のごとく、後に「寛政の三博士」といわれる学者になったのである。
 精里の妻、光増氏伊予も良妻賢母の誉れが高かったが、文化元年(1804)、精里よりも12年早く亡くなった。周囲のものが精里に再婚をいくらすすめても、精里がこれに応ぜず余生を独身で送った美談も残っている。
 夫婦の間に三男六女が生まれたが、長男燾(おほふ、号は穀堂)、二男あきら(洪家を継いで洪晋城といった)、三男(号はどうあん)の3人はそれぞれ有名な学者や政治家となり、後に3人は「劉家の三鳳」といわれ、また精里の孫に当たるどうあんの長男謹一郎も茶渓と号して、東京大学の前身に当たる蕃学取調所長をしたり、また越後長岡藩の名家老といわれた河井継之助がこれに師事したりしたこともあった。
 明治以後になっても精里の子孫は日本銀行の幹部となった洪純一、洪泰夫海軍中将、教育家の西村謙三のほか、縁故者に枝吉順如、福田慶四郎などが輩出したのである。

出典:川副町誌P.979〜P.981