武富太郎兵衛

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武富太郎兵衛

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2063

 大詫間の島を初めて50町歩干拓した人が佐賀城下白山町の武屋こと、武富太郎兵衛であった。正保、慶安時代と想像されるからいまから三百二、三十年前の人だろう。むかしから有明海中には筑後川下流に潮がひくと、いろいろの「津」といった浅瀬ができたが、慶長時代に新しくできた松枝沖の「津」の所属領有について、佐賀藩と柳川の立花藩が永く争った結果、やっと正保元年(1644)、佐賀領と決定したのである。
 その後、白山武屋の武富太郎兵衛が藩庁にこの「津」の埋立を願い出た。藩庁の許可で埋め立てた50町歩のうち、正税として25町歩を藩庁に献上、13町歩を国老深掘氏の采地として献上した残り12町歩を私有地とし、妻の父下村利由の采地にいた農民をここに移住開墾させたという。
 武富家の先祖は、永禄時代、筑後国瀬高の小柳瀬兵衛が明(中国)から国王一族の十三官と名づけた人である。この長子が佐賀の三溝に住んでいた武富茂助の妹を娶って武富庄左衛門と名乗ったが、この武富茂助は坂上田村麿の子孫ということであった。武富庄左衛門の二男久右衛門が白山町で呉服屋をして巨万の富を作り、その子四郎右衛門の時代は清国(中国)とも取引して儲けたが、四郎右衛門の長子市郎右衛門は家業よりも漢学の勉強に力を入れた。名を咸亮、字を伯通、廉斉と号し、3代藩主鍋島綱茂に知られて士班に列された。この武者廉斉(咸亮)から9代目の子孫が、明治大正の政治家として大蔵大臣などをした武富時敏であった。
 武富家は三溝に住んだ本家を一般に「三溝武富」といい、白山町に住んだのを「白山武富」といった。また白山武富の道智の弟に当たる遺禎が現在の白山町東通りにあった勢屯(せいたむろ)町に住んだからこれを勢屯武富といったが、道禎の子に如有、常吉の2人があり、如有の子英春が太郎兵衛といって寛文2年(1662)私費を投じて大詫間の干拓に乗り出したという。
 なお大詫間の文字も、370余年前の慶長時代は「大宅間」、280余年前の元禄時代は「大多久間」約180年前の享保時代は「大詫間」、約70年前の文化時代は「大宅摩」または「大詫摩」と書いたことがあった。また岩松要輔氏の調査によると、大詫間の干拓に最初手をつけた武富太郎兵衛が、文化6年(1823)武富忠右衛門が執筆した『武富家伝記』によると武富太郎兵衛となっているが、その後天保5年(1834)出版、南部長恒執筆の『疏導要書』では武富太郎右衛門としてあり、結局武富太郎兵衛の名を取ってある。本編もまたこれによった。

出典:川副町誌P.977〜P.979