園田二郎兵衛

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園田二郎兵衛

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2062

 犬井道の海童神社の境内西南隅に、辻演年と並んで園田二郎兵衛(むかしは薗田と書いた)の記念碑が建っている。園田二郎兵衛の記念碑は明治30年代、最初は古くから園田一族の漁師たちが住んでいた田中の西北端に建てたものを、昭和時代になって海童神社に移したものである。
 園田二郎兵衛は、戦国時代の天文22年(1552)7月25日、筑後の柳川近く、一木村に蟄居中の龍造寺隆信が、再挙を企てて佐賀城を奪還しょうと、鹿江遠江守兼明などが用意した兵船に乗って、現在犬井道戸ヶ里先のアカシドウに上陸したとき、犬井堂新兵衛と2人、この水先案内をして鹿江の威徳寺まで導いた漁師であった。昭和53年現在から425年前のことになる。
 この園田二郎兵衛と犬井堂新兵衛2人の尽くした功績を龍造寺家から鍋島家にと時代が変わっても忘れなかったわけだろう。
 龍造寺隆信がアカシドウに上陸して52年後の慶長10年(1605) に、後で園田一族が「隆信さんのお墨付」といった御判物が園田二郎兵衛と犬井堂新兵衛2人にさずけられたのである。この御判物は縦27cm、横18.2cmの板に書かれたもので、園田一族が交代で保管してきたが、現在は佐賀県立博物館に預けてある。文字は次の通り。
 「鹿江崎大宅間江はじ指の儀堅存申にまかせ魚百掛上江さし上申可然候、己上
    慶長十年
     八月十日 与兵衛尉
                    薗田二郎兵衛
                    犬井堂新兵衛
 当時現在の犬井道はまだ鹿江崎といっていた。大宅間は大詫間だが、当時はまだキチンとした島ではなかった。はじ指は後に立切網とか八尺網、タテギーといった。このはじ指網の特許も文面からみて漁師たちがお上に願い出たものだろう。漁師たちの願いは許すがその代わり魚を百掛(一掛は一荷か、一籠)お上に差し上げろとのこと。与兵衛尉は龍造寺系累の龍造寺与兵衛尉家久のこと。この御判物のほか、鍋島家では下の由来書寫を保管した。
 「慶長十年乙巳
   秋八月安順免以下佐嘉犬井堂之津人薗田二郎兵衛犬井堂新兵衛於鹿江崎大宅間江漁焉但以彼之父祖隆信公自筑後還行之時渡江之船忠也為証判而授之
       安順
   始 龍造寺六郎二郎賢康
   中 同  与兵衛尉家久
   後 多久長門守  安順
 この御判物によって園田二郎兵衛、犬井堂新兵衛の2人は、はじ指網と公役御免のほか、苗字も許されたのだろう。その後66年後の寛文11年(1671)の御判物では、犬井堂新兵衛の子孫が断絶したので園田二郎兵衛の子孫である園田内紀にはじ指網の儀は申付るとある。この御判物では犬井堂が犬井道と変わったのが目につく。降ってこれから66年後の正徳4年(1714)、子孫の園田次郎助が、これまで園田一族のはじ指漁に従事したものは18人いた。これは公役御免の特権があったが、こんど村役人から公役かたを申し付けられ迷惑した。このためお上に陳上したところ、願いの通り公役御免になって有難いとの礼状も残っている。更にまたこれから89年後の享保3年(1803)の記録では園田一族の嘆願書として、一族も子孫も100人余りに増加したが、田畑を耕さず、漁業一筋に生きている。しかるに近年搦方などのお役所ができ、干拓地が広がって漁場が狭くなり、それに葦が繁茂してはじ指網もやり難くなったから何とかしてくれと訴え願い出た文書などの記録も残っている。

出典:川副町誌P.975〜P.977