川上軌道と馬鉄

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川上軌道と馬鉄

■所在地佐賀市神野
■年代近代
■登録ID1894

 大正中期には佐賀軌道と川上軌道があったが、大正8年(1919)8月に両社が合併した。
 佐賀軌道は、明治36年(1903)8月に創立し、その設備は品川馬車鉄道会社の使用していた軌条、車輌、馬具など一切を購入して、営業は翌37年2月から開始し、佐賀駅―諸富間の運行を行なった。
 川上軌道は、大正元年(1912)11月に設立され、本社を三溝に置き、佐賀駅から川上都渡城(かわかみととき)の区間を営業した。その後大正5年には、神野踏切から招魂社(現護国神社)前までの路線を拡張した。
 両社の合併は、交通機関の統一をはかるために行なわれた。協議は難航したが、大正8年8月に合併案がまとまった。社名を佐賀軌道株式会社とし、路線拡張案も出された。
 佐賀軌道株式会社は神野町三溝の元川上軌道会社を本社とし、水ケ江町の元佐賀軌道会社を出張所とした。営業路線は川上線(神野町二本松―三溝―県道―川上都渡城)、中ノ小路線(佐賀駅前―中ノ小路―招魂社前)、諸富線(佐賀駅前―唐人町―県庁前―片田江―水ケ江―諸富)があり、中ノ小路、諸富の両線は馬一頭牽(馬鉄)で、川上線は軽便機関車による運転であった。機関車は、ミニSLで西部劇に出てくる機関車に似ていたが、それよりもっと小さかった。川上やお不動さんの遠足には、「川上軌道」といってよく利用したものである。
 「名残り惜しい佐賀の軌道馬車、廿五日からバスと交替」(『佐賀新聞』昭和3年6月23日付)と佐賀軌道は馬車鉄道を廃して、自動車運行をすることになった。
 また、佐賀軌道では、電化が論議されていたが、昭和3年11月にそれを正式に決定し、社名も佐賀電気軌道株式会社と改称した。佐賀電気軌道の佐賀―川上間の電車敷設工事は、昭和5年4月8日に竣工し、4月10日から運行を始めた。
【思い出】
 また、佐賀駅前から紡績通りを通り招魂社(現護国神社)前までは馬鉄があった。馬鉄とは鉄道馬車のことで、チンチン電車よりもっと小さい車両を馬が引っぱって走る車である。車両の窓は片側4つか5つであった。馬が引っぱっているので、時々珍事が起こった。疾走している馬鉄が突然停車、何ごとかと思いきや、馬が徐に尻尾を上げて排泄作用をやるのである。時には脱線することもあった。この時は、運転手さんは、お客さんに降りてもらい、車体をかかえてレールにのせてもらって、「ハイ、発車」というようなのんびりした光景も見られた。

出典:神野p.170〜171(神野小学校100周年記念誌)