祝融山 天福院

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祝融山 天福院

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■所在地佐賀市新栄西一丁目6-8(八戸西)
■登録ID1865

曹洞宗(龍雲寺末寺) ○本尊 薬師如来  ○創立 元和元年(1615年)※
開山演渓融音禅師、開山希伯瑞龐禅師、開基隨公宗正大姉
 天福院の先々代住職(第二十七代)、渡辺鉄肝和尚は、日本初の養老院を佐賀に立てた事で知られている。
明治40年アメリカへ留学した鉄肝和尚は、勉学に打ち込む一方貧困者救済にも関わり日本に帰国した後、アメリカを見習って護国神社の南隣り(川原小路)に養老院を建設した。以来、その運営に心血を注ぎ、天福院との間を下駄の音高く往復する姿を見て、人々は「鉄肝さん」と呼び敬愛した。
 寺の入り口にある「養老院」と書かれた大きなお墓には、養老院で亡くなった身寄りのない人々が葬られ、今でも手厚い供養が行われている。
 また、この寺には「佐賀の夜ばなし」(「市報さが」昭和49年9月1日号、福岡博著)で語られている円蔵院物語の村了の墓がある。
 佐賀市城南(現在の赤松小学校)の南にある圓藏院は、天文14年(1545)の正月、川上(大和町)と祇園原(神埼町)で、馬場頼周にだまし討たれた龍造寺家純、周家、純家、頼純らの菩提を弔うため、周家の未亡人慶誾尼が建立した曹洞禅寺である。
 佐賀藩では、二代藩主鍋島光茂の時代に、龍造寺家と鍋島家に縁故の深い高伝寺、慶誾寺、静元寺、宗竜寺、竜泰寺、天祐寺、宗智寺の7か寺に特別の保護を与えることになった。しかし圓藏院は漏れていた。
 そこで、圓藏院の時の住職村了和尚は、「龍造寺家一門の墓所のある圓藏院も、前の7か寺と同格に優遇していただきたい」と願いでたが、返事もなく、果たして光茂のお耳に達したやら、はなはだ心もとないありさまだった。
 業をにやした村了は意を決し、鍋島一家が慶誾寺に参拝のとき、焼香台の下に身をしのばせ、光茂に「お願いでございます」と叫んで上訴状をささげた。
 当時、直訴は重罪で、その場で捕らえられた村了は、八戸の天福院で処刑されることになった。いよいよ首を切られるとき、村了の形相はものすごく、検視の役人どもをにらみつけ、「村了の肉体はたとえ切られても、わが一念は切られはせぬ、いつまでも現世にとどまって望みを果たす」とのろいながら、首をはねられた。
 丁度それと同時刻に、佐嘉城門を風のごとく通り抜け、玄関へ急ぐ僧侶があった。その格好は、切られたはずの村了和尚とそっくりであった。僧侶が本丸の玄関に立った瞬間、光茂の妾腹の子が火のついたように泣き出し、間もなく息絶えた。
 このような不祥事が日ごと続き、夜は火の玉が飛ぶようになった。高伝寺の湛然和尚は、村了の助命を願い出ていたが、出家を処刑したことに抗議して、さっさと高伝寺を出てしまった。さすがの光茂もこの事件に驚き、圓藏院も先の7か寺と同様に優遇することとし、本尊として観世音仏を刻ませ、村了の位牌を納めてその霊を慰めた。
 村了のおん霊にたたり殺されたといわれる庶子十人の肖像は、十仏と唱えられ、水ヶ江の宗竜寺に残っている。なお、村了の墓は天福院、供養塔は圓藏院に現有している。

※『佐賀県近世史料第十編第二巻』p181、「龍雲寺本末御除地并無縁地破壊地差出帳」によれば、「当寺儀は創建年月不詳、開基演渓融音禅師隨心宗□(※正)大師三世暁岩和尚元和元年従龍雲寺退穏于当時、陽泰□(※院)様御帰依有之敷地弐段八畝御寄附被遊」とあり、元和元年は三世暁岩和尚による中興の年で、創建年は不詳とされている。

出典:ワークショップ

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