本庄江湖の渡し場

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本庄江湖の渡し場

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■所在地佐賀市西与賀町
■登録ID175

本庄江湖には上流の厘外と有重、中程の有重と今津、そして下流の新町と丸目にそれぞれ渡し場が設けられ人々の往来の便を図っていた。
渡す方法として、潮の干潮の時は川の中心に舟を固定し両岸にふみ板を渡して渡す方法、満潮の時は長い竿竹で舟をあやつって渡す方法、梅雨時期の大雨や台風等で川の水位が上昇した時は両岸に太いロープを固定し舟に乗りながらロープを両手で握って渡す方法があった。
丸目のように川幅が広く竿竹では川底に届かない所では櫓をこいで渡していた。
厘外と有重そして今津で長年渡し守りをしてきた大隈氏と江口氏にそれぞれ当時を回想しながら苦労話を聞いてみた。大隈氏によれば、厘外の渡し場は嘉瀬の有重地区と西与賀の厘外地区と4年ごとの交替で、大隈氏は昭和8年から12年まで当番であった。当時の舟賃は大人、こども共2銭で1日の売上は25円から30円程度で夫婦二人がその日暮せる生活費は十分あった。
年間を通じて特に客が多い季節として、徳善院への彼岸参りと高伝寺の春祭りだったという。
苦労話として夜中であろうと潮の干満によって渡し舟を移動させねばならなかったこと、そして大雨により急流のためロープで渡し舟を操作した時、満潮になり下流より砂利運搬船や、石灰、運搬船の通過時における渡し舟の移動等数多くの苦労とたたかって来た。外から見れば簡単な仕事と思われるかわからないが、尊い人命を預っているため、その責任は重大で神経の休む暇もなかったという。
一方有重の江口氏は昭和34年から38年にかけて渡し守りをしていた。当時の舟賃は片道20円で1日の売上は500円程度であったという。年間を通して一番客が多い季節として、有重のお不動さんの祭り、そして彼岸の時、本庄高伝寺の春祭りだったという。
苦労話としては大隈氏と共通していた。
なお丸目の渡し場については当時の人が現存していないため聞きとることができなかった。

出典:西与賀の歴史とその周辺p.86