徐福渡来

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■所在地佐賀市諸富町
■登録ID1634

佐賀県立博物館に畳1畳ほどの「金立神社縁起図」が保管されている。「徐福渡海縁起図」とも呼ばれ、下段に船4隻に乗った徐福一行が浮盃江に上陸しようとする様子が鮮やかに描かれている。
約2,200年前、中国統一の偉業をなしとげた秦の始皇帝は栄華の日々を送っていたが、自分が年をとることと死に近づくことは如何ともしがたくこの不安から逃れようといろいろな手立てを考えさせた。
古来より中国には不老不死を願う神仙思想があり深山の奥に住む仙人が不老不死の霊薬を作っているという伝えがあり、始皇帝は神仙の術を行う方士と呼ばれる者にこの霊薬を探すように命じた。
方士の一人である徐福が「東海に蓬萊島あり、島上に仙山あり、山上に仙草あり、食すれば不老不死を得る」と進言した。そこで徐福は金銀珠玉に飾りたてた船20艘に少年少女や供の者数百人を乗せて蓬萊の島をめざして旅立った。
徐福一行がまず着いたのは杵島の竜王崎(杵島郡白石町)であったが上陸に適さなかったので、徐福は大きな盃を海に浮かべ流れつくところから上陸することにした。盃は流れ流れて筑後川下流の搦に辿りついた。浮かべた盃が流れついたところから、この浜を浮盃というようになった。
上陸しようとしたとき、暴風雨となり船が転覆しそうになったが、アミが船の間にびっしりとつまって転覆をまぬがれたため搦の人々はその後、アミをとらなくなったという。
徐福は生い茂るアシの葉を手でかき払って上陸したので、葉が片側だけにつく片葉のアシになってしまった。
一行は上陸すると手水を使うために井戸を掘り、その井戸水で手を洗ったので手洗いの井、その音が訛って、てらい(寺井)の地名になったという(昭和2年、園田秀次氏宅の床下から発見された井戸を徐福の掘った井戸と伝える)。
徐福たちは、搦に滞在していたが網につける柿の渋の臭いにがまんできなくなり、また、不老不死の薬も早く探さなければならないので、蓬萊山に似ているという佐賀平野の北方にそびえる金立山めざして旅立った。

出典:諸富町史P.1233