本野 盛亨

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本野 盛亨

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1505

天保7年〜明治42年(1836〜1909)新聞社社長・官吏
 八田晋の子として久保田村徳万に生まれ、本野権太夫の養子となる。思斉館に学び、のち谷口藍田に学ぶ。青年時代大阪で緒方洪庵について蘭学を修めた。長崎では英人フレッチェルと米人フルベッキに英語を学んだ。明治元年神奈川県大参事となり、また外務権少亟、外務一等書記官、横浜税関長、大蔵大書記官、大阪控訴裁判所検事等を歴任する。同3年日本最初の活版印刷社「日就社」を岐阜出身の子安岐と長崎出身の柴田昌吉とともに創立する。同7年には3人で、読売新聞社を創業。子安が初代社長をつとめたあと、同22年に2代目社長に本野盛亨が就任した。本野盛亨社長は、就任の挨拶に「新聞の編集には口を出さず、すっかり委せるが、ただ新聞の記事のために泣く人や恨む人を作りたくない。いくら新聞が売れなくとも、個人の私事を暴くことだけは絶対に差し控えて欲しい」と述べている。その人柄をうかがい知る事ができる。3代目は甥の高柳豊三郎が社長となった。高柳は、明治45年2月に没し、4代目には本野盛亨の次男である本野英吉郎が社長に就任し大正8年までは、本野家が読売新聞社の実権を握っていた。寺内内闇の外務大臣本野一郎は盛亨の長男である。本野家の墓は本町草木田の寶琳寺にある。正三位勲五等 享年74歳

出典:久保田町史 p.336