桜木

桜木

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1470

 桜木の名称は、御館社の桜と桜堤計画から
 桜木は、徳万交差点から南に900mほど下った左手の道路を、L字に200mほど行った所の集落である。この集落は、町当局からの要望を受けて、平成7年に佐賀県住宅供給公社が宅地開発をして、分譲住宅地として売り出したものである。第1期25戸が分譲地として売り出され、平成13年度までに28戸の住宅が建設されている。桜木の名称は、集落の100mほど北側にあった御館社の桜の木とそのころ県森林公園に桜堤計画があって桜木と命名された。県住宅供給公社の副島課長は「住宅の名称は、宅地の売り出しの時に付けるが、通常はその地区の字名とか〇〇ニュータウンなどが多い。久保田町では、古賀善行助役(当時企画課長)に相談して決めた」と話されている。御館杜は、5代邑主村田政義が龍造寺隆信・政家・高房を祀って建てたもので、境内には50本以上の桜があり、近隣集落からも花見に訪れ大変賑わったという。しかし、その御館杜も、昭和50年ごろなくなっている。在、桜木の低床公園の周りに20本の桜の木が植えられている。古賀助役は「名称は、横文字よりも、なにか謂れがあるほうがいいと思った。春になれば、家族で花見でも楽しめるようになるといいが」と話されている。桜堤計画は、平成12年度に完成し、森林公園の球場南に広がっている。そこは桜堤広場といい、他の樹木もあるが50本以上の桜の木が植えてある。
 以前の嘉瀬川堤防周辺にあたる
 桜木は、以前の嘉瀬川堤防周辺にあたる。この付近を文化4年(1807)の太俣郷国を見ると、御蔵入嘉瀬郷麦新江とある。御蔵入とは、直接領主の蔵に年貢が入ることである。この図面では、まだ嘉瀬郷に属しており、道路や水路などが記載されていない。この地域は、嘉瀬川の短絡により出来た地域である。嘉瀬・久保田の土居筋に決壊の憂いあり、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出て、寛延3年(1750)に嘉瀬川の曲がりを堀切されている。圃場整備以前は、草木田の志波商店南から南西に向かって周囲よりも小高い道路があり、中塚被服の西を通り、龍宮社の東を通って土井の古賀の集落へと巡っていた。この道路は、嘉瀬川の堤防跡である。道路の東には、小さい水路があり葦や小笹が繁っていた。その東には、水田や桑畑などの農地が広がっていた。また、この道路から150m〜170m東に小高くて幅が小さい道路があった。これは対岸の堤防にあたる。この堤防跡は、道路として利用されていたが、堤防として役に立たなくなった周辺部は次第に切り取られていった。この旧堤防跡に囲まれた地域を町の字図でみれば、古川籠となっている。
 瓦用の泥も採れた
 小路の高森慶治郎さんは「ここの畑周辺には、櫨の木が何本もあった。戦後までこの櫨から実を探っていたが、昭和30年ごろ木炭にした。ヌカ殻を置いて焼くと、いい木炭ができた。また畑の側に、戦時中周辺の人たちが防空壕を作ったことがある。戦後まで防空壕はあり、長持ちなどが置いてあった」と話されている。田畑は、小路・草木田・麦新ヶ江の人たちが耕作にきていた。食料難の時代には、芋や野菜を作って大変助かったという。また、ここの農地からは瓦用の泥を掘り出した。ここの泥は、あず混じりの泥でいい瓦ができるといわれた。馬車に泥を積み込んで瓦屋さんが運んでいった。(あずとは、佐賀の方言で小砂あるいは粉砂のこと)桜木は、佐賀市にも近く静かで地理的にも恵まれ住みよい所だと思うが、現在経済の低迷でまだ25区画が売れ残っている。住宅公社の担当者は「宅地だけでも売れればいいが」と思案している。

出典:久保田町史 p.750〜752