下満

下満

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1468

 以前は三日月村の飛地があった
 下満は町の北西部で、国道207号線沿いに位置する。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」に1村として記録があり、貞享4年(1687)改正「御領中諸郡郷村附」「天明郷村帳」では古賀正兵衛の給地との記載がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では、久保田村の枝村として記録されている。「明治十一年戸口帳」によれば、久保田村のうちに「下満村」とあり、戸数7戸、人口35人と記録されている。下満には、明治の頃まで小城郡三日月村金田ヶ里の飛人地があったが、明治30年の行政区画変更で久保田村になっている。名前の由来を知る人はいないが、三日月町に上三津とあり、そこと何か関係があると思われている。また明治生まれの古老たちは、三日月の学校に通っていたという。下満の西方を西古賀という。貞享4年改の郷村帳に太俣郷(村田家の所領)内に久保田村とあり、その小字に西古賀の記録がある。西古賀とは、久保田の西にあたる荒野であったことにちなむと考えられる。下満と西古賀は、以前は別々であったが、昭和30年代前半に一緒になったといわれている。
 旧長崎街道を畷と呼んだ
 集落の南に国道(旧長崎街道)が通っている。この道を古老たちは畷という。(久保田宿のはずれから牛津新宿までの道、地元では″のうて”と呼ぶ)畷とは、田の間にある道で、古くは広さ6尺の畦道をいい、低湿なものを道路にしたものである。隣の牛津町には、十丁畷の地名も残されている。以前の村中の道は、3尺道(約90cm)が多かったが、車力が流行るようになって6尺道(約180cm)になったという。戦前の下満には、長勝寺、押明寺、如意庵、修善寺、光明寺など小さな地域内に多くの寺院があったが、現在は永福寺と明春寺のみとなった。また、集落の北西には廟由(びゅうだ)と呼ばれる田圃もあった。以前の下満には、館屋敷、北久保田屋敷、式町屋敷、同心屋敷、三王屋敷などと呼ばれるところが多くあった。屋敷には、石祠や竹薮があり、その周りは堀に囲まれていたという。稲股三郎さんは「祖母から、佐賀戦争があった時は、近くの竹薮の中に逃げ込んだ。と聞いたことがある」と話されている。昭和35年頃まで、境川の東の田圃からかわらつつ(表土の下の層の青土)を取って、瓦焼きなどに利用していた。この辺りの土は、素焼きや瓦焼きに適した泥であったようだ。千綿成一さんは、「以前西古賀の館屋敷と呼ばれる田圃附近には、鋤を使う時に“ほうろ”(素焼き)の小くずが多かった」と話されている。
 下満の氏神様山王社
 久保田宿のはずれから北へ150m、下満の民家を少し離れた圃場の真ん中に三王社と天満宮・弁財天の石祠が祀ってある。山王社の祭神は大山咋神で、農業の神様である。山王社は下満の氏神様で、以前は80mほど東にあったが、圃場整備で現在地(天満宮の境内)に移されている。戦前には舞台掛けで浪速節や狂言などが行われていた。また、牛津の商人野田家の日記によれば、下満で文化9年と天保7年春に狂言が興行されている記録も残されている。現在は、12月23日にお籠りが続けられている。山王社から300mほど西の田圃の中に若宮社がある。昭和15年の皇紀2600年祭の時にご神体を新しく作り替え、境内には桜の木が植えられた。春には家々から弁当を持ち寄ってお籠りがあっていたが、昭和53年に境内に遊具を備えるため桜の木は無くなってしまった。この若宮宮に20cm位の木彫りの像がある。この時は、大正の末ごろここに何日か逗留した人が、お礼に置いていったものである。この集落から昭和22年・26年・30年の秋の供日に、もりゃあしなどの浮立が出された。この時は、牛津町の練ヶ江までも、浮立を踊りに回ったこともあった。以前のこの集落には、駄菓子屋と酒屋の2軒の店があった。戦前は、西古賀に7軒と下満に12軒の民家があったという。

出典:久保田町史 p.744〜747