上恒安

上恒安

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1466

  世帯数27戸から現在は150戸へ
 上恒安は町の中北部で、旧長崎街道の国道207号線をはさんだ地域に位置している。
 永禄年間(1558~70)当地に後藤貴明(武雄領主)が自運庵と称する居館をもっていたが、龍造寺隆信に追われ、塚崎城(現武雄市)に逃れた。元亀元年(1570)満岳宗久が父宗成の意思を継ぎ、貴明の草庵を改築し、曹洞宗満岳山龍顔寺を創建、恒安に居館した。宗久の出自は不明だが、居館跡は現存する。天正年間(1573~92)隆信と貴明は和睦し、貴明の子弥次郎晴明を隆信の養子として、太俣郷に500町の領地を与え、晴明は恒安に居館したという。満岳宗久の子孫は連綿として、江戸時代には太俣郷の大庄屋(地元では、うーじょうやと呼んだ)を世襲し、明治維新後満岡良貴は第2代村長に就任している。(現在地藤瀬民男氏宅付近)
  大神宮さんでお祀りをしていた
 満岳山龍顔寺は、上恒安の西南にあり、道路を挟んだ東に大神宮がある。この大神宮は、永禄年間に後藤貴明が草庵の鬼門にあたっていたために祀ったもので、戦前は春5月に集落総出でお籠りをしており、家々からご馳走など持ち寄りお祀りをしていた。鶴丸静夫さん(80)は、「以前は、大神宮さんの境内は広く、お籠りの時は弁当を持っていって老いも若きも楽しみにしていた。また、子どもの頃はぺチャや投げゴマで遊んだことがある」と話されている。このお籠りは、戦後は王子宮で続けられている。正保国絵図に恒安村の記録があり、万延元年(1860)改の郷村帳には、恒安村の小字として福島・館屋敷・口ノ坪・王子の記載がある。「明治十一年戸口帳」によれば「久富村のうちに恒安村」とあり、戸数52戸・人口270人と記録されている。名前の由来を知る人はいないが、この地は中世に戦乱や天災に人々が苦しみ、故に「いつも平穏な所であるように」との願いを込めて、恒安と付けられたものであろうか。国道207号の南に朱塗りの鳥居が見える。王子権現社と王子森稲荷社である。ここで旧暦の8月8日に夏の祇園が行われていた。舞台掛けで浪花節(上恒安出身の伊勢清さん)や狂言などが行われ、徳万町等からムシロをもって場所取りに訪れるくらいに賑わった。その後集落の青年たちにより素人演芸なども行われたこともあった。現在は、9月の日曜日に秋祭りを行い、集落総出でレクリエーションなど楽しみ、住民の懇親の場となっている。また、平成9年1月には、集落の鬼火たきも復活している。
  季節保育所を開設
 王子宮の南に町最古の寺、三学寺(838)がある。承和5年全国的に疫病や天災がおこり、大宰府の鎮守府将軍俊仁は、僧仁海にこの災難を防除させるために三学寺を創建させた。この寺で昭和10年頃に農繁期の季節保育所が開設さている。この保育所には10人ぐらいの幼児が預けられ、非農家の奥さん達が世話をしていた。昭和18年には、村より表彰状が贈られている。上恒安集落は、毎月12月8日と4月8日に当番が祐徳稲荷神社に詣で、お札を貰って家々に配る。100年以上も続いているといわれている。古老たちは、「昔は、おじいさんたちが夜なべして草履を造り、朝暗いうちから履いてお参りにいった」と話している。納スミさん(80)は、「この地域はクリークが多く、春のごいあげや秋の堀干しの時には、フナやコイなどがよく獲れた。家の裏の道は今よりもっと狭く、久保田宿から南へ通じる道路は、以前は堀だった」と話されている。戦前は、この集落の戸数は27戸(国道北側には2戸)で、昭和60年頃より徐々に戸数が増えてきて、現在は150戸を越すようになった。また、戦前には酒饅頭屋や床屋、染物屋もあったことがある。

出典:久保田町史 p.739〜741