上新ヶ江

  1. 久保田町
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上新ヶ江

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1464

  以前は新開村と呼ばれた
 上新ヶ江は、町のほぼ中央部の西にあたり、福所江沿いに位置している。慶長年中(1596~)肥前国絵図に新開村とあり、現在でも地区内に新開の字名が残されている。宝暦郷村帳(1752)では、新ヶ江村とあり、天明郷村帳(1783)では上新ヶ江とある。文化4年(1807)の太俣郷国では、新ヶ江村とある。古賀・空閑は、比較的古い開発新田であるのに対し、新開・籠・搦等は古くから行われている干拓に依る新田である。久保田保育園前の交差点から1200m西の道路そばに、大日如来の石祠がある。石祠には、明治10年と刻まれている。この石祠の前の道路を、100mほど西へ行くと上新ヶ江の交差点に出る。この道路は、昭和10年ごろ改良工事が行われている。以前は、幅の狭い道路が曲がっていたのを真直ぐにしたものである。交差点に繋がる南北の道路(町道北田~下新ヶ江線)は、大正8年頃福所から交差点まで、田圃の中に一直線に通された。下新ヶ江までは大正12年頃である。それまでは、堀のそばを広狭まちまちの道路が廻っていた。交差点から西に芦刈町へ通じる道路は、昭和30年以降に改良工事が行われている。船津丸嘉郎さん(74)は「以前の道路は道幅が狭く、雨が降ればぬかるんだ」と話されている。交差点から西へ100mほど行った道路南側に馬頭観音の石祠がある。石祠には、文政8年(1815)とある。戦後の20年代までは、どの農家でも馬が飼われていた。春になると、その馬の爪切りがここで行われていた。
  夜泣きの神様「三太夫社」
 この馬頭観音の前の道路を、北へ350mほど行った田圃の西に天神社がある。お堂の中には、天神社と並んで三太夫社が祀られている。地元では、「さんだいさん」と呼ぶ三太夫社は、この地区では夜泣きの神様という。江原栄さん(76)は「子どもが夜泣きをすると、ここに7色のお菓子を上げてお参りをする。お参りが済むと、近所の子どもたちにお菓子をあげて食べてもらった。以前はこの地区だけでなく、芦刈などからも御参りがあった」と話されている。天神社の祭りは12月25日で、地区の東側の住人がお祭りをする。また、馬頭観音の前の道路を西に100mほど行った道路北に若宮社がある。若宮社の祭神は、仁徳天皇である。若宮社の祭りは西地区の人が行い、12月15日であったが、現在は天神社とともに12月の第2日曜日となっている。2月1日は、この境内で百手祭りが行われている。弓と矢は竹で作り、直径2尺の竹を組んだものに障子紙を張った的を作る。10mぐらい離れた所から的を射る。的に当たった人は、その年は運がいいといわれている。地区内には、他に金毘羅社・祇園社・毘沙門社など多くの神仏が祀られている。これらの社は、地区の鬼門や裏鬼門に当たる所などに多く祀られて、人々の災難防除と幸せを願って建てられたものと思われる。
 面浮立は明治の頃から
若宮社から西へ150mほど行った道路北側に、松壽山桂秀院がある。元亀元年(1570)2月、勝海和尚は曹洞宗高傅寺末として桂秀院を建立したが、万治元年(1658)2月、檀中の帰依によって高傅寺10世渓雲和尚を請じて開山した。この元亀元年には、8月19日に今山の戦いがあり、7月末には国内で大洪水が起こっている。昭和18年頃の夏の祇園の時に、お寺の境内で青年団による仁○加が舞台を組んで行われた。新しく仲間入りをした青年たちは、提灯を買って周りに下げたという。上新ヶ江には、面浮立がある。この地の面浮立は、明治34~5年頃芦刈村の東道免で行われていた面浮立を習いに行って、この地で行われるようになった。高岸龍夫さん(71)は「昭和28年の伊勢の遷宮祭で、県の代表として踊ったことがある。その時は汽車で、1車両貸し切りで出かけた」と話された。この集落に、戦前には雑貨屋が1軒あった。世帯数は55軒ほどで、現在とほとんど変化がないという。

出典:久保田町史 p.733〜736