福島

福島

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1463

 1300年頃の海岸線
 福島は、ほぼ町の中央部にあたり、小中学校の西に位置している。佐賀市大和町の高城寺文書には、正応元年(1288)に「肥前国河副荘米納津土居外干潟荒野一所之事」とあり、当時の海岸線が現在の佐賀市川副町米納津・南里・佐賀市本庄町上飯盛・同嘉瀬町中原・久保田町福島・上新ヶ江・芦刈町下古賀を結ぶ線で、開墾から干拓への漸移線地帯であることが推察されている。因みに荒野とは、有明海沿岸では芦原のことである。宝暦郷村帳(1752)では、恒安村の小村に福嶋村があり、明治15年ごろの「佐賀県各町村字小名取調帳」には、久富村の小字に福島とある。文化4年(1807)の太俣郷国では、地図中央部に福島とあり10軒ほどの民家が描かれている。集落は、3つに分かれた島のようで、周囲を大きなクリークに囲まれている。福島の福は、幸せを願って付けられたと思うが、島はクリークに囲まれているところから名付けられたものであろうか。
 以前の道路は学校の中を通っていた
 久保田保育園前交差点から福島集落へ通じる道路がある。この道路は、昭和34年ごろに新設されている。以前は、思斉校正門の60mほど北側の裏門と呼ばれるところを通っていた。思斉校は昭和2年に上の学校と下の学校が合併して現在地に移転している。古賀ナリエさんは「その当時、道路そばにはレンガ塀があり、中ほどから学校の中へ入れた。学校に入ると、中央廊下の前に出た。2年生の時(昭和5年)に台風が来て、北側と南側の校舎が倒れた」と話されている。道路の北側には実習田があり、戦時中には学校の生徒たちが食糧生産のために耕作をしている。戦後、新制中学校が設立されることになり、学校用地も拡大していった。保育園前交差点から600mほど西の道路南に、福島集落の公民館がある。その建物の西に天神社が祀られている。石祠には、寛政8年(1796)と見える。以前は、天神社の前にお堂があったが、昭和49年に福島公民館が建てられた。この天神社で、毎年正月・5月・9月の3回、地区の安全を祈願した村御祈祷が行われている。当日は、真光院さんの御祈祷の後、集落住民が集まって酒食を供にした懇親の場となる。12月25日は村祭りで、集落を東・中・西の3班に分かれて、大人から子どもまでが集まり、当番の家回りで行われている。真光院さんの御祈祷の後、その年の村の経費を精算して、飲食を共にしながら1年間の労をねぎらった。戦前には、2日間も村祭りが行われていたこともあったが、昭和37年ごろ廃止になっている。この天神社で7月25日に、子どもたちの豆祇園が行われている。戦前には、出店が2〜3軒出されたこともあった。原田兵一さんは「明治のころから祇園の時に、舞台を組んで仁○加などの芝居があっていた。と聞いたことがある」と話されている。
 浮立がだされたことが
 昭和7年頃、この集落から秋の供日の時に、もりゃあしや銭太鼓の浮立が出されたことがあった。踊りの師匠には、新田の生方玉六さんがやってきたという。集落内にその浮立で使う鉦があったが、戦時中に鉄の供出などでなくなってしまった。村中の道路は、昭和30年代後半に広くなった。以前は、今の半分(3mぐらい)の道幅で、古老たちは雨が降るとぬかるんで歩きにくかったという。道路改良前の集落中ほどの橋は土台は石組みであったが、橋梁部分は木造りで、泥で盛土をして高くなっていた。雨が降るとこの泥がぬかるんで、魚屋さんなどが自転車のハンドルを取られ川に落ちたこともあった。この道路を、昭和20年代までは、春・秋の年2回徳間の高士居(たかでー)から、車力で砂を運び補修をしている。この集落の、戦前の世帯数は16軒ほどで、豆腐屋が1軒あった。豆腐屋さんは、天秤棒を担いで町内のあちこちを売り歩いたという。

出典:久保田町史 p.731〜733