金丸

金丸

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1460

  八筋濠の恩恵の中で暮らしてきた
 金丸は、町の中央より南に位置し、東に横江・西に永里があり、中世の干拓堤塘線に成立した集落である。正保国絵図に「金丸村」と記載があり、「宝暦郷村帳」では1村と記録され、天明3年(1783)の郷村帳には小字として福田・福島・田中の記載がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では徳万村の枝村として記録されている。「明治十一年戸口帳」によれば、徳万村のうちに「金丸村」とあり、戸数33戸、人口181人と記録されている。
  金丸は鎌倉期の名田名
 名前の由来を知る人はいないが、金丸とは鎌倉期に見える名田名。名田とは、平安中期から中世にかけて、荘園や国衙領の構成単位をなす田地。開墾・購入などによって取得した田地に取得者の名を冠して読んだもの。この集落には、2つの大字があり、東を大字徳万、西を大字久富という。また、御髪大明神も2つあり、大字徳万の野口喜好宅東と大字久富の国道444号線そばにある。この御髪神社は、有明海唯一の島である沖の島の祭神を奉祀している。沖の島さんは、後世は豊作の神、雨乞いの神として広く信仰されている。さらに大字久富には、金丸公民館西に天満宮があり、石祠には文久2年(1862)と刻まれている。この3つの神社では、春・夏・冬の3回それぞれの氏子によってお祭りがなされている。お祭りの日は、神社の清掃をして家内安全・無病息災・五穀豊穣を祈願し、大人たち(男性)で懇親の酒席を設けている。以前は、この天満宮で舞台掛けの祇園をやったこともあった。下新ヶ江などから夜店が2~3出て、あめ湯・ポンス(飲料水)ラムネなどが1銭や2銭で売られ、地域住民や子どもたちの楽しみでもあった。同集落の原田ツヤさん(78)は「みんな祭りを楽しみにしていた。これがなくなると寂しかなんた」と話されている。金丸集落から、昭和9年頃に「もりゃあしや銭太鼓」の浮立を出したことがあったが、これが最初で最後だったという。この地域には荒木濠・金丸濠などの八筋濠があり、昔から自生した菱が沢山あった。明治・大正・昭和の最盛期には入札によって菱の実の採取権を定めていた。この菱の実採りは、初秋の農家の絶好の日銭稼ぎでもあり、姉さんかむりの娘たちが、夕暮れ時から佐賀市内で「菱やんよ~、菱はいらんかね~」とふれ歩く。久保田菱は、佐賀菱の代表であった。佐賀県が生んだ歌人中島哀浪の歌に「菱の実半切桶にためて、うでて(ゆでる)売り歩く姉さんかむリ、あれさ久保田の菱娘」と歌われている。昭和50年以降圃場整備後は、久保田菱も少なくなり、今は菱探りをする人もいなくなった。
  もやい風呂は昭和8年頃まで
 金丸の西に荒木川があり、そこに大きな井樋がある。水もよく流れていて、以前はこの井樋のそばで子どもたちはよく水泳や釣りを楽しんだ。また、荒木川の近くには「もやい風呂」も昭和8年頃まであり、おばあちゃん達が濠から水汲みをし、風呂を沸かした。このもやい風呂は、農作業の汗を流すのと地域の交流の場でもあった。子どもたちは、おばあちゃんたちからさくずの入った手ぬぐい(石鹸の代わり)を渡されもやい風呂に入った。この集落に、横江から永里に通じる道がある。以前は、馬車が通るくらいの道幅であったが、昭和26年春各家々から夫婦で集まり、道路の拡張を行った。またそのころの農道は、ほとんどが三尺道(90cm)で、畦には豆などを作るので、栄えてくると使える道幅はもっと小さくなった。野口喜好さん(87)は、「以前は、稲もモミも全部イノーテ(担いで)きた。農道には水落としもあり、昔の百姓は大変苦労した。」と話されている。この小さな集落に、以前はアメガタ屋が2軒と医院(荒木井樋の側に大正5、6年頃まで)があったが、現在は昭和の始めから続いている原田商店が1軒ある。平成5年以降宅地開発が進み、19戸程度であった戸数も70戸を超えるようになった。

出典:久保田町史 p.722〜724