江戸

江戸

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1458

 昭和13年潮止め完了
 江戸は、町の最南端で有明海に面している。久富交差点から1400m南に、第2線堤防があり、その前面に面積約12町余りの江戸搦がある。この干拓については、干拓記念碑そばにある 槇拓地之碑に記してある。碑には明治22年と刻まれておリ、邑主村田政矩が干拓の有利なことを思い立ってから、嗣子政匡が亡父の意志を継いでこれを完成した顛末が記してある。第2線堤防の200m南に江戸コミュニティセンターがある。センターの南に、昭和27年に建立された干拓記念碑がある。その後干拓は、昭和7年9月に地元有志により公有水面埋立免許申請・昭和9年3月に工事着工し、昭和13年1月に潮止工事が完了した。の潮止工事の時は、コミュニティセンター辺りから幅1m、厚さ5cmくらいの板が潟面から高さ1.5mぐらいで1.3km先の潮止工事現場に渡してあった。当然この渡し場は、潮が満つと海中に沈むことになる。その当時、工事の飯場が東の江戸集落入口の第2線堤防南に建てられた。ここには、4~50人もの人夫が集まったという。この干拓地は、戦争が激化するにつれ、食料事情が悪化の一途をたどり、学校の児童生徒や非農家までが食料生産のためやってきていた。
 昭和22年入植が始まる
 昭和22年に、外地引揚者や農家の次男坊など13戸が第1次の入植をしている。入植者は、なるべく標高の高い江戸搦の堤防沿いに自力で麦藁葺きの家を建てることになった。土は、潮止めが完了して必要性を失った江戸搦の堤塘を崩して地高めをした。この頃は、まだ江戸集落に電気は届いてなく、ランプでの生活が始まる。油は配給で、13戸で分け合って使った。ランプは、家には1つしかなく、夕方ランプを布で磨くのが女性たちの日課となった。電気が江戸集落に来るのは、昭和28年ごろである。飲み水は、第2線堤防北側クリークから桶を担いで汲んでくることになる。しかし、当時の道路は凸凹道で、家に帰り着くころは半分ほどに減っていたという。詫摩繁太郎さん(78)は「あのころは、リヤカーに樽をつけて水汲みに行った。最初の10年は、苦難の道だった」と当時の苦労を話す。水道が江戸集落に通水されるのは、昭和31年4月である。入植当初江戸で耕作されていたのは、芋や綿・黄瓜などであった。当時の江戸の耕地は、雨が降ればぬかるんで、リヤカーは泥がついて、滑って引かれない状態となった。干拓地が水田となるのは、昭和27年ごろからである。第1次入植者の高原三郎氏が、佐賀市相応から指導者を招いて水田の試作を始めた。その2~3年後には、入植者全員が水田に取り組むようになる。この入植者の中に、元町長の古賀了氏もいた。古賀氏は、竹葺きの屋根にランプのつましい生活を、昭和27年までこの地で送っている。
 昭和56年から江戸集落に
 この干拓にも農地改革の問題が起こり、村に2つの農協を生む大きな原因となった。そして、2次入植が昭和27年から行われる。セメント瓦葺きで、建坪20坪の入植者用住宅80戸が建てられ、入植者は100戸となった。江戸集落は、干拓や帰農集落ともいわれていたのを、昭和33年に「干拓集落」と呼ぶように統一したが、昭和56年干拓のイメージを変えたいとして、江戸搦からとって「江戸集落」とした。江戸集落への西側入口の第2線堤防上に、八大龍王石祠がある。石祠には、文化2年(1806)とある。1月10日と7月16日が祭りの日である。以前は、搦東・西の新地の人たちがお祭りしていた。この祠は、さらに西方にある「丹右ェ門搦」の地点が大決壊の時、工事の安全を願って祀ったものらしいという。八大龍王石祠横に、「大乗妙典書寫石一部」と刻まれた石塔がある。正面刻字に明和三酉戌年久保田久富村新田再興築とある。この石塔を地元では、「経塔さん」と呼んでいる。経塔さんは、以前は2号カントリーの北西にあった。

出典:久保田町史 p.716〜719