搦西

搦西

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1457

 搦は干拓地名に付けられる
 搦西は、町の南西部で国道444号の南に位置している。搦は、佐賀・白石平野に存在する干拓地名に多く見られる。天明3年(1783)に佐賀藩は、殖産興業のため六府方を創始し、干拓事業のための搦方を置いた。新地に搦の名を付するのは、概ねそれ以後のことと思われる。搦は、からむという意味で、初めに堤防のシンとして松丸太を約1間間隔に打ち込み、それに竹材をからみつけて柵を作り、そのまま数年放置すると、潟泥が付着、堆積して内部の干潟が上昇し、搦の内部に葦などが生えてくる。そこで、小潮を利用して、板ぐわで柵の土寄せを行い、堤防を固める。この種の干拓地は、主として江戸期から近代に造成されたもので、数町から百数十町に及ぶ。明治十一年戸口帳によれば新地村戸数17戸・人口123人とある。明治15年ごろの佐賀県各町村字小名取調書によれば久富村の小字に、搦村・西新地・東新地の記録がある。
 搦西は昭和17年から
 搦が東西に分かれたのは、配給制度が行われていた昭和17年ごろである。区域は、搦の集落のほぼ中央部の水路を境に東と西に分かれている。以前は、この搦を西久といった。昭和10年ごろの久保田村の図面にも、西久と記載されている。久富交差点から350mほど南に、搦東公民館がある。さらに、同公民館から西へ300mほど行った道路側に、お大師さんを祀った小さな祠がある。お大師さんの石の台座には、弘化2年(1845)と刻まれている。以前は、30mほど北にあったが、多くの人に参詣してもらうために、昭和の初め頃現在地に移されたという。お大師さんとは、弘法大師のことである。
 こやうちとは合宿所のこと
 この大師さんのある地域を、古老たちは『こやうち』と呼ぶ。明和年間に潟土井(2線堤防)の構築中に工役人夫を諸方から雇い入れ、小屋内という合宿後を設けて工事を行ったところからそう呼ばれた。圃場整備前は、お大師さんの前を南へ350mほど行くと土井へ通じる道があった。この土井は、松土居といわれ、三丁井樋の200mほど東から南へ下り嘉瀬川堤防まで巡っていた。この土井は、藩政初頭までに開拓されたものらしい。この土井の内部を搦といい、外部を新地といった。地元では、松土井のことを『かねんでい』と言う。向嶋與四郎さんは「1日働いて、賃金は徳利の中に入れてある銭で払う。徳利の中に手を入れて銭を掴む。しかし、たくさん掴むと徳利から手が出ない。そうして作った堤防だから『かねんでい』といった。と古老から聞いたことがある」と話されている。こやうち集落の西を、南へ300mほど行った所の松土井そばに、茶屋元という大きな堀があった。ここに井樋があり、真水と潮水の境目で、それ以西の奉賀井樋までは潮遊びとなっていた。土井そばには、馬頭観音が祀らていたが、現在は江戸集落西入口の、第2線堤防上の龍王社の境内に移されている。高原忠雄さんは「幕末頃に、この茶屋元の西の松土井に邑主村田氏の射り場があって、的を撃っていた。茶屋元のいでからは、玉が出てきたことがあった。と父から聞いた」と話されている。この茶屋元から松土井を西へ200mほど行った所に、諏訪大明神の石祠があった。石祠には、文久2年(1862)と刻まれている。高原喬義さんは「昔は、この地域はヒラクチが多く、お諏訪さんの境内の砂をまくと、ヒラクチが寄りつかない。と聞いたことがある」と話されている。この石祠は、圃場整備後龍王社の境内に移されている。ここのお大師さんやお諏訪さんで、昭和30年代まで夏に子どもたちの豆祇園が行われていた。平成2年、国道444号線そばに特別養護老人ホーム南鴎荘が開所されている。また、この集落出身に、名誉町民で衆議院議員や町長をされた古賀了氏がいる。

出典:久保田町史 p.713.716