搦東

搦東

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1456

 八幡搦と呼ばれた
 搦東は、町の南部で国道444号線の久富交差点の南に位置している。文化4年(1807)「佐嘉郡太俣郷図」では、西久富村と東久富村に分かれ、文化14年(1817)の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に久富村とあり、その小字に搦の記録がある。明治七年取調帳では、久富村の枝村に新搦村がある。搦が東と西に分かれたのは昭和17年のことである。
  お金に緑がある不動明王
 久富交差点から200mほど南へ下り、それから西へ50mほど行った道路側に不動明王の石祠がある。この石祠には、大正13年と刻まれている。昭和32年ごろまでは、石祠の前にお堂があり、戦後の21年ごろには、青年団による演芸も行われたことがあった。南川スエさんは「以前御参りに来た人から、龍が右の方からお不動さんの額にかかっており、このお不動さんはお金に縁がある。と聞いたことがある」と話されている。この不動さんには、昭和40年代までお遍路さんがお参りにきていた。圃場整備以前の道路は、このお不動さんの前を通り東新地の集落から江戸集落へと通じていた。この不動明王の50m東の道路を、南へ150mほど下った所に搦東公民館がある。ここには、以前庵と呼ばれる藁葺きの家があった。明治の頃に、この庵に南部為一という人が落ちつかれ、寺子屋を始められたという。南部先生は、もとは明治大帝の先生(侍講?)であったという人もいた。先生の墓は、久富の寿慶寺にある。公民館から南へ300mほど行った道路側に、八幡社がある。八幡社の中央と左の石祠には、梵字(悉曇文字)1字で表されている。梵字は、古代インドで発達した文字で、仏教的影響が大きかったと思われる。中央の石祠には、寛文5年(1665)、左の石祠には澳嶌大明神とあり、右側に元文5年(1740)と刻まれている。境内の鳥居の側に丸い石がある。重さ120斤(約72㌔)あるという。搦の古老たちが青年時代に、力石と呼んで力比べをしたものである。西岡又六さんは「私が若い頃は、ほとんどの人が胸まで持ち上げるのが精一杯だったが、持ち上げて背中をぐるっと回す力持ちの青年たちが何人かいた」と話す。隣の芦刈町など他の町村の人たちは、久保田の搦の人達を「八幡搦から」と呼んだ。この地に、八幡社があったからであろうか?
 松土居は、寛永年間の築造
 以前は、八幡社の南に松土居があった。地元では、松土居とも金土居とも呼んだ。松土居は、江戸初期の潮土居の遺構といわれ、疏導要書の松土居の構築記事などから寛永年間(1624〜44)初頭の築造と考えられる。松土居の名は、堤防強化のために松を植えられたことにちなむ。その後、櫨の木が植えられていたが、圃場整備でなくなっている。松土居から800m南に、第二土居がある。この土居は、維新前までは潮土居で、地先は干潟であった。邑主村田氏が10余の搦の城塞として増築したもので、明和の頃の築造である。戦前までは、この潮土居の切り通しから180mほど東の土居そばに番小屋があり、台風の時など堤防の見回りをしていた。昭和9年に久保田干拓が始まる前までは、第二土居の前面には満潮時には淡く濁った有明海の波が悠々とうねり、干潟時には暗黒色の干満が広々と展開し、大小の澪筋が天然の模様を描いて、ムツゴロウを初め珍奇な海棲生物が跳梁していた。その頃のムツゴロウの捕獲は、掘るか釣るかであった。昭和47年発行の「有明海の漁労と漁具」には、搦東集落の古賀種吉氏(明治26年〜昭和33年)が、昭和15〜6年ごろタキャツポという25cmぐらいの竹筒で簡単に捕獲する漁具を考案したとある。以前のこの集落には、酒類を扱う雑貨屋が2軒と酒類を扱わない小店があった。

出典:久保田町史 p.711〜713