久富西

久富西

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1455

末永く富める地区になるように
久富西は、町の南部で久富交差点付近の国道444号線沿いに位置する。
「元禄国絵図」では、徳万村・快万村のうちに久富村の記録があり、「宝暦郷村帳」では土井古賀村の小村として久富村の記録がある。
文化4年(1807)「佐嘉郡太俣郷図」では、西久富村と東久富村に分かれており、貞享4年(1687)改めの郷村帳には久富村の記録がある。
「明治十一年(1878)戸口帳」によれば久富村戸数92戸・人口502人と記録されている。
名の由来を知る人はいないが、人間誰しも幸福でありたいと願う。久富とは、末長く富めるようにとの願いが込められているのであろう。

久富は戦国末期の海岸線跡
久富から三丁井樋へ通じる道路付近は、戦国末期(1600年頃)の海岸線と思われる。古い土井跡は、久富から搦を経て北に曲り、少し行って西へ折れ、三丁井樋から搦の北部までは、戦後まで低い萱の茂った土井で交通路として残され、櫨(はぜ)の老木が残存していたが、県道大川〜鹿島線の開通で昔の面影はなくなってしまった。
国道444号線の久富交差点から東へ200メートル、三叉路から右へ200メートルほど行った町道が久富バス停南の交差点へ続く。この町道の道幅は、以前は3メートルぐらいで、江越末次さんは「子供の頃、この道を新道と呼んでいた」と話されている。

久富バス停南の交差点そばにお地蔵さんと観音さんが祀ってある。お地蔵さんは文政3年(1820)の建立で、子どもたちが堀に入ったりしないで無事に育って欲しいという願いで建てられている。
古老たちは「夏の水遊びの後、体が冷たくなった時はお地蔵さんを抱いて温めてもらったこともある」と話す。
また観音さんは、周辺も子どもが堀に入って亡くなったり、病気や事故で夫を亡くしたりする人が続いたことにより、周辺婦人7〜8人が相談して「お地蔵さん1人では寂しいだろうと、また地域の繁栄を願って」大正2年(1913)に建立されたという。

圃(ほ)場整備前までは、お地蔵さんから北へ古川籠を回って横江集落南の灌漑(かんがい)小屋の側へと続く三尺道があった。久富の子どもたちは、学校へ通う時にこの三尺道を利用していた。古老たちは「子どもの頃、堤防や道路そばの葦や竹林のある所に『ホンゲンギョー』を作って遊んでいた。正月には、餅などを持っていったりもしていた」と話す。
横江へ行く途中のこの三尺道の側に、大きなマルボイ(丸くなっている堀)があった。馬渡力さんは「この堀で子どもの頃、泳いで鬼ハスの実を採っていた。また冬の寒い時は、付近の狭い所では氷が張っていて、杭などに掴(つか)まって渡ることができた」と話されている。

嘉瀬川から飲み水汲みに
この集落では、からま(干間)の時に集落の東にある嘉瀬川から列を作って水を汲み、川からイノーテ(担いで)上がってきて、大きな樽に入れて運んでいった。この水は、飲み水として家々のハンズーガメ(大きな甕)に貯えられた。
その後、昭和4〜5年(1929~1930)頃、久富東の中島松次郎さん宅に、深さ80間(140メートルぐらい)の井戸が掘られ、附近の人々は飲み水を貰いにいっていたが、戦後井戸は枯れてしまい(炭坑の影響か?)、上水道が引かれる昭和30年(1955)頃まで人々はまた嘉瀬川に水汲みに行くことになる。この井戸は、現在でも中島さん宅に残されている。

久富バス停附近に、昭和28年(1953)頃まで馬の運動場があり、その北側はクリークが流れていた。久富では、そこに馬車で砂を運び、子どもたちのよき水遊び場とした。また、その下流は馬洗い場になっていた。
久富西は、戦前には60戸ぐらいで、主に農業が多かった。また以前は、駄菓子屋・精米所・苗物屋・床屋・馬車運搬業・桶屋・魚行商・蒟蒻屋・豆腐屋・雑貨屋・染物屋・竹刀造屋・縄ない工場・トウス屋(唐臼、もみすり)などがあった。
現在は、佐賀郡南部消防署久保田出張所(昭和50年(1975))、久保田町漁業協同組合(昭和28年(1953)頃)久保田特産物直売所(平成5年(1993))やコンビニ、飲食店が数軒ある。

出典:久保田町史(下巻) p.708〜710