久富東

久富東

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1454

 戦前は漁港として賑わった
 久富東は久保田町の南東で、国道444号線の南に位置し、嘉瀬川の西にあたる。戦国末期(1600)の潮土井線は「慶長絵図」によれば三丁井樋から久富に通っている道路あたりが海との境となっていた。「元禄国絵図」(1701)に徳万村・快万村の内として、久富の村名が現れている。「宝暦郷村帳」では、土井古賀村の小村として記録がある。文化4年「佐嘉郡太俣郷国」では西久富村と東久富村に分かれている。「明治七年取調帳」では、枝村に恒安村・新搦村・三丁搦村の記録がある。「明治十一年戸口帳」によれば、久富村のうちに「久富津」とあり、戸数82戸・人口442人と記録されている。名前の由来を知る人はいないが、久富とは末長く豊かになることを願って付けられたものであろうか。
 天明7年御番所設置
 天明7年、藩政時代に御番所が設置され、物資の出入りと人の移動を監視した。この付近は、小高くて丸くなっており、近くには千俵倉と呼ばれる高倉があった。倉の周りには民家が10軒ばかりあり、御番所の広場に、秋になると久保田中の百姓さんが、馬車に米俵を積んで集まってきた。遠くは神戸・大阪方面へも出荷していた。また、大正時代には、石炭や石灰・肥料(まめすて)なども千表倉にいれていたことがあった。久富東は、明治21年に漁浦に指定され、ムツゴロウ・アゲマキ・ウナギなどを扱う漁港として活況を呈していた。また、天草からは芋などを積んできて、農家の人がイノーテ(担いで)村を売り歩いた。南川又三さんは、「子供のころ御番所の近くで遊んでいた時、馬車で荷積みに来ていた馬が急に暴れだし、嘉瀬川に蹴飛ばされ死ぬ思いをしたことがあった」と話されている。この当時川底は砂地で、砂取り船が鹿島や六角川などからやってきて「ここの砂じゃなきや、コンクイ(コンクリート)はできん」と言われたほどであった。子どもたちは、この砂いっぱいの嘉瀬川で水泳やしじみ貝・魚捕り等をして遊んだ。からま(小潮)になると、この嘉瀬川に集落総出で(西の端からも)飲み水汲みにやってきて、樽にいれて運んでいた。この水汲みは月2回(5日間ほど)行われ、「水は、透き通って美しかったが、川からイノーテ上がって、またイノーテ大変だった」と古老たちは言う。以前の嘉瀬川堤防は低く、天端は1間ほどで狭く、川岸にもう1つ小さい堤防があった。舟屋に通じる所は、さらに堤防が低くなっていて、よく大水が出ていたという。この2つの堤防で囲まれたところに田圃があったが、昭和28年の水害以後、堤防の改修工事でなくなっている。
 昭和20年空襲をうける
 昭和20年8月5日午後11時、久留米方面から飛来した米軍機によって空襲された。1機が低空飛行で嘉瀬川筋の久富漁浦を襲い、久富東部の南側の田圃の中に照明弾を投下し、続いて10数機が飛来して数百個の焼夷弾を投下した。火災は翌朝まで続き、全焼家屋72戸で死者もでている。この時に千俵倉も焼失してしまった。昭和45年久保田橋が完成。それまでは、佐賀に行くには福富の宇治端の渡しを利用していた。原田栄治さんは、「橋が出来て便利になった。佐賀へは自転車で通えるようになった」と話されている。久保田橋の南で、堤防の西側に御髪社がある。以前は、堤防の東にあったが、昭和35年に現在地に移転している。旧暦の4月8日には、漁業関係者によって、海上安全と大漁を祈願したお祀りが行われている。この御髪杜の境内には、むらづくりに尽力された中島松次郎氏と佐賀新聞社先々代社長の中尾都昭氏の頌徳碑がある。戦前のこの集落には、漁業者が多く、農業は2〜3軒だった。また、呉服屋・雑貨屋・糸・縄販売店などがあった。

出典:久保田町史 p.705〜707