福富

福富

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1453

  以前は佐賀郡嘉瀬郷福富だった
 福富は、町の南東で嘉瀬川沿いにあり、久保田橋の北に位置している。この付近は、自然陸地化と干拓によってできたものである。以前の嘉瀬川は、大幅な曲がりがいくつもあり、福富の西にも蛇行部があったが、この部分の排水が悪く、しばしば洪水に襲われている。この洪水防止のため、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出て享保15年(1730)に掘り切りの工事が行われている。宝暦郷村帳(1752)によれば、嘉瀬郷(現佐賀市)の内に新村とあり、その小村に福富の記録がある。明治7年取調帳では、新田村の枝村として福富の記録がある。明治11年戸口帳によれば、新田村のうちに福富村とあり、戸数54戸、人口308人と記録されている。名前の由来を知る人はいないが、富と付いた地名は川沿いの集落によく出てきている。辞典によれば福富とは氏姓と記してあり、福富姓の人が開墾または所有していたものであろうか。
  久保田内になったのは明治17年頃?
 藩政時代は、嘉瀬川堀切後も福富は嘉瀬郷に属し、佐賀本藩の所領であった。記録的には、明治7年に新田村の内にあるが、住民の意識はまだ佐賀本藩の意識が強かった。福富集落に残されている明治14年の真宗西本願寺の書付には、長崎県肥前国佐賀郡嘉瀬福富村と記載されている。明治10年頃生まれた人々は、久保田と陸続きになっていたが「久保田内に○○をしに行ってくる」と言っていたという。蘭誠次郎さんは、「福富が久保田内になったのは、明治17年頃と聞いたことがある」と話されている。当時の佐賀本藩で架ける橋は、石橋が多かったといわれ、福富集落に架ける橋も殆どが石橋であったという。その名残として福富公民館前に石橋が残されている。以前は、この石橋で鎌を研ぐ人もいたほどだった。福富の古い川跡は、10町余りあり半分より福富内を新田、外側を久富とされていたが、圃場整備により古い川跡はなくなってしまった。
  宇治端の渡しは昭和45年まで
窓乃梅酒造の前の道路(以前は、県道だった)を通って、集落の東の嘉瀬川筋に宇治端の渡しがあった。旧藩時代に、海岸線が干拓地の造成によって松土井線(現搦)まで進み、福富・大立野・久富などの集落が発生した。この辺の川幅は約200mもあり、川をはさむ嘉瀬新村への交通手段として川渡しが必要となった。渡し場は、元禄8年頃(1695)はあったといわれる。この宇治端付近には、6〜7軒の長屋があり、床屋や渡し守さんの家もあった。戦前の渡し賃は、大人2銭、子供1銭、自転車2銭、リヤカー5銭であった。以前は、白石・鹿島方面から佐賀方面への往来の人々で賑わったが、昭和45年久保田橋の開通と共に廃止された。宇治端には、元禄元年創業の窓乃梅酒造がある。窓乃梅酒造は、六右衛門という人が土井の古賀(現中副)に酒屋を始め、嘉瀬川改修がされてから現在地に移転し、屋号を宇治端と名付け代々酒造業が続けられている。集落の西に永明庵がある。いつごろ建立されたかは定かではないが、御厨健次助さんは、「3代前からあったと聞いている」と話された。この庵の軒先に鐘が吊るしてある。この鐘に嘉瀬福富村明治九丙子再建と記されており、また庵には安政7年(1860)の写経本が残されていることから、江戸時代に建立されたものと推測される。この庵では、毎月のように真宗の行事が続けられている。以前のこの集落には、漁業者もいたが農業は30軒ほどがあり、また豆腐屋・桶屋・床屋・酒屋・せんべい屋・提灯屋・魚の行商などがあった。戦前には、60戸ほどがあったが、戦後の嘉瀬川改修で10軒ほどが移転している。

出典:久保田町史 p.702〜705