大立野北

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大立野北

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1451

 農業とサラリーマンの集落へ
 貞享4年(1687)改の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に大立野村とあり、嘉永4年(1851)の郷村帳には、新田村の小村に大立野の記録がある。近世の中期頃、嘉瀬川の蛇行を直す工事が行われ、大立野津として船の出入りが多くなっている。名前の由来を知る人はいないが、立野とは農民の入会利用を禁止した原野のことで、特に採草・狩猟地として領主の直轄地に指定された所が多く、地名として残っているところがある。この地区一帯も嘉瀬川筋で、以前は大きな原野(葦野)があり大立野と呼んだのかもしれない。
 大立野北の名称は明治後期ごろから
 明治11年の「郡村戸数人口並字調」に新田村の枝村として「大立野津、戸数159戸、人口846人」とあり、町役場の公簿にも北と東を併せて字大立野となっている。この頃はまだ大立野東と北は一緒になっていたようだ。大立野北の呼称が出てきたのは、明治後期以降のことであろう。古老達に、何時から大立野北と呼ぶようになったか尋ねたが「自分達の小さい頃から大立野北と呼んでいた」と答えている。戦後下新田と合併して現在の大立野北となった。以前の大立野北は、漁業者が多い集落で、春先は朝鮮海域へ魚を獲りに出かける漁業者もおり、家の前には網干場が多かった。船着場は、現在の北の森神社の横の道を真っ直ぐ北の方に行った川筋で、嘉瀬川の曲がりにあたり、深い淵となっていた。その辺りを地元では「あらこ」(荒籠)と呼ぶ。下新田は、大立野北の南で10軒ほどの集落があり、以前は「たつくい」と呼ばれていた。「たつくい」とは、「田を作る」即ち農業をする集落という意味かもしれない。この地区では、風呂水は井戸と堀から、飲み水は川からといわれ、同集落の中島スマさんは「若いお嫁さん達は、月2回の嘉瀬川からの水汲みに難儀をしていた」と話されている。
  横江から大立野間の道路は中世の干拓堤防線
 大立野北は、町中央部の嘉瀬川筋の西に位置する。大立野から横江に通じる道路は、中世の干拓堤防線であるといわれ、この道路を現在1日2往復の大立野行きのバスが昭和38年から通っている。集落の北の端に、北の森神社がある。境内北側の中央石祠に「北之森正一位稲荷大神璽」とあり、明治39年の建立である。以前は、嘉瀬川堤防下の船着場に近い所にお祀りしてあったが、昭和28年ごろの嘉瀬川改修工事で現在のところに移されている。この神社に、漁業者は航海の安全と大漁を祈願した。旧暦1月8日がお祭りで小屋がけの舞台などがあり、多くの見物人は堤防から眺めていて、相当の賑わいがあったという。北の森神社より上流は竹藪で、下流は葦野であったが、今は見通しの良い堤防となっている。集落の南には、慈雲庵という寺が1カ所あり、戦前は住職もいたが今は集落の公民館に建て替わっている。この寺には地蔵尊があり、夏には子ども祇園が行われている。また戦前は、この集落からも村の供日の時に「もりゃあし」などの浮立が出されていたが、戦後費用の関係で途絶えている。現在は、有明海岸の漁業の移り変わりで、農業とサラリーマンの集落となってしまった。西岡春雄さんは、「以前は、家族が多く1家に7人ぐらいいた。1人暮らしの老人にも、『どがんしょっかい』と声を掛ける人が多かった」と話されている。この集落には、医院が2ヶ所・鍛冶屋・自転車屋(夏は氷屋)・蒲鉾屋・駄菓子屋・醤油屋・魚屋(主に行商)・酒屋・豆腐屋・染物屋・雑貨屋などの小さな店があったが、今はもう個人経営の商店は無くなってしまった。

出典:久保田町史 p.697〜699