町西

町西

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1442

 以前は沢山の商店が並んでいた
 町西は、町の北部で国道207号線(旧長崎街道)沿いに位置し、徳万交差点の東から中井樋までをいう。以前は、町西・町東を合わせて徳万宿といった。鎌倉期に記録されている名田名に得万名とあり、河上神社文書(仁治2年)に「得万三丁八段」とある。徳万は、得万名の遺称であろうか。名前の由来を知る人はいないが、辞典によれば徳は得に通用するとあり、得とは求めて手に入れるの意がある。万は数が多いことで、徳万とはいろんなものが手に入る所という意味であるかもしれない。
 徳万宿の地形は戦時に備えた構えで、民家の作りは戌亥から辰巳に向かっており、街道面には三角形の空地を残し合戦の防御攻撃の拠点としてあった。宿場の中央を嘉瀬川より直流する川路を二分し、また民家の裏側には、北南とも小河川(3〜5m)を通し、家庭用水・防火用水を兼ねていた。この水路は、以前は水がよく流れ、子どもたちが魚を採ったり泳いだりする良き遊び場でもあった。
 村役場や漁業組合も徳万にあった
 道路北の中井樋附近に、大正の初め頃まで村役場があったが、火災にあい大正2年に小路に移転している。また、昭和12年に佐賀市営バスがバスセンターから徳万まで運行するようになり、集落の西端で道路南の空地がバスのUターン場所となった。その後この空地に建物が建ちUターン場所は変更になったが、昭和43年徳万行きのバスは廃止になった。この地に、昭和23年頃漁業組合の事務所が設置された。ここでは玄海方面からの魚介類が運ばれ、配給が行われていた。快万の志波政利さんは「漁業組合西のクリーク(3m位)に板が渡され、そこに沢山の魚の入った箱が並べてあった。また、魚屋さんたちは、魚が運ばれて来るまで自分の家(志波さんの家)で碁を打ったりして待っていた。女の人も2〜3人いたと思う」と話されている。この魚を受け取りに来る魚屋さんは、久富の人が多かったという。漁業組合は、海苔養殖が始まる昭和27年頃久富に移転している。昭和の初め頃まで、徳万の交差点に立っていると、香椎神社の森で鳴く木菟の声がし、嘉瀬川のせせらぎが響いていたと古老たちはいうが、現在は1日1万6,000台の交通量となっている。国道改修以前は、道幅も狭く、バスがやっと通れるくらいで、夏は道の両側にバンコ(幅50cm、長さ180cmぐらい)を出して夕涼みが出来るほどのんびりしていた。秋の供日の時は、町の中に砂を敷き、1軒1軒並んで浮立を打っていったという。昭和12年からの国道改修工事の時は、道路北側の民家が移転した。昭和14年改修工事が完成したが、広くなった国道に立った当時の高森豊吉村長は「これではまだ狭い」と呟いたという。力久一さんは「以前の国道は、天気の良い日はごみが舞い、雨が降るととばしがかかった」と話されている。また舗装工事は、昭和29年頃行われている。
  病気やケガの平癒を願った薬師寺
 集落の中程で、道路南に願福寺がある。以前の記録は火事で無くなったが、300年〜500年以前に三学寺の末寺として建立されたといわれている。この寺を古老たちは、薬師寺と呼ぶ。本尊が薬師如来で、病気やケガ・安産などを祈願する人が多いところからそう呼ばれた。この寺の境内に八代大明神の石祠がある。以前は、現在の位置より少し南の方にお堂があって、まつりの日(旧暦6月23日)には唄や踊りなどが奉納されっていた。現在は、町西の3班が受け継いでお参りをしている。                                      以前この集落には、医院・銀行・郵便局・呉服屋・ランプ屋・下駄屋・足袋屋・酒屋・仕出屋・薬屋・床屋・花屋・時計屋・竹屋・米屋・醤油屋・染物屋・左官・石屋・鍛冶屋・ヤスリ屋・マッサージ屋・せんぺい屋・とうす屋・仕玉屋・髪結い・八百屋・豆腐屋・鶏肉屋・風呂屋・蒲鉾屋・荒物屋・提灯屋などがあった。
 徳万附近は、交通の便が良くなったが、人々の往来は少なくなり、商店も減少している。平成7年からは、交通の流れを良くするため、新たな交差点改良工事の調査も行われている。

出典:久保田町史 p.669〜671