卒塔婆の堰(そとばのせき)

  1. 物語・いわれ
  2. 物語・四方山話
  3. 検索結果
  4. 卒塔婆の堰(そとばのせき)

卒塔婆の堰(そとばのせき)

■所在地佐賀市三瀬村
■年代近世
■登録ID1331

猟師ヶ岩山・脊振山背口ノ山・井手野山・栗原山の連峰から発した水を一つにあつめて流れる鳴瀬川が、洞鳴の瀧を経て岸高南方の田原を通って神有部落に入ったところに、一帯の水田用水をひくために設けられた井堰(いせき)がある。
もとは、この井堰を「卒塔婆の堰」と呼び、堰の南端には卒塔婆が立てられていた。
これは、江戸時代、天明(1781~1788)の頃の物語である。

鳴瀬川は川幅が広く、水量も豊かであったので、この堰も大きく築かれていたが、大雨が降るたびに決壊し、里人はその復旧のための公役(くやく)に明け暮れる有様であった。
とくに卒塔婆が立てられた年には、幾度も大雨洪水に見舞われ、そのたびにこの堰はおし流された。
復旧しては流され、流されてはまた復旧へと、せき止めの作業は何回となく繰り返された。
そのために農民は疲れきっていたが、蔵入米の減収をおそれる藩の代官所からは、井堰決壊のときは即刻復旧せよという厳命が下されていたので、復旧工事の手をゆるめるわけにはゆかなかった。
とくに村役や組頭たちは、上納米の徴収納入の責任をもたされていたので、一日も早く復旧して、干上がろうとする水田に水をおくって、稲作を豊かにしておく必要があった。
ところが打ち続く水害のために堰の決壊は大きく、人夫も疲れていたので作業はなかなかはかどらなかった。

その日も一同は河原に集まって円座を組み、せきとめてもせきとめても流されるこの堰を、何とかして堅固なものに仕上げる方法はないものかと、思案投げ首していたが、よい案も出てこず、干上がろうとする水田を眺めては天を仰ぎ、ただ神仏の加護を祈るより外はなかった。
一同が困り果てて嘆息しているとき、いままで見かけたことのない一人の僧が、念仏の誦文(じゅもん)を高らかに唱えながら、堰の近くを通りかかった。
見ればその僧は盲(※原文のまま)である。

作業の指図にあたっている村役の頭はその盲僧を見て、苦しい時の神頼みのようであるが、幸いにも通りかかったあの僧に、せめて祈祷だけでも頼んで神仏の加護を祈ろうと考え、去って行く盲僧のそばに走りよった。
そうして、堰止め作業に困りはてている事情を話した上、
「ここを通りかかられたのは何かの縁、貴僧の法力によって、この堰止めに効験ある経文をお唱え下さって神仏の御力添えを祈っていただくわけには参りますまいか」 
と、ねんごろに頼みこんだ。

自信ありげにうなずいた盲僧は即座に承諾し、村役の案内で一同のいる河原におりてきた。
堰に向って立った盲僧は、しばらく黙想したのち、念珠をつまぐりながら朗々たる声で経文を唱えた。
唱え終っておもむろに礼拝した盲僧は一同の方に向きなおり
「ただいま経文の功徳(くどく)によって神のお告げがあった。そのお告げによれば、この公役人夫のなかに、履物の緒が右縒(よ)りと左縒りになっているのを履いている人がいる。その人をこの堰の人柱として埋むれば、永久に流れない堰止めが成就すること間違いないとのことである。」
と言った。

これを聞いた人夫たちは、もしや自分の履物が、そのお告げに的中しているのではなかろうかと驚き、村役はじめ恐る恐る自分の履物をしらべた。
ところが人夫の中からはそれと名乗り出るものがいないので、村役が一人一人の履物を点検してまわった。
しかし該当するものはなかった。
最後に盲僧の履物をあらためると、なんと、盲僧自身の履物の緒が右縒りと左縒りになっていたのである。
盲目の悲しさ、自分の履物がそれだとは気が付かず、村役に見てもらってはじめてそれを知った盲僧が哀れに見えたが、盲僧は少しもあわてず、神のお告げのとおり、拙僧を人柱にせよと言って、泰然自若、経文を高らかに唱えながら埋められていった。

それからは不思議に作業もはかどり、いままでにない堅固な井堰ができあがったのである。
人々は井堰の完成をよろこび、これはまことに神仏の加護にちがいない。
あの時の盲僧こそ実は神仏の化身であったのであろう。ありがたいことだと、僧体を埋めた処に卒塔婆を立てて、盲僧の冥福と井堰の安泰を祈った。それ以来この堰を「卒塔婆の堰」といい、部落の名前も有難い神の留まり給う処というので神留村と呼ぶようになった。神有村と言うようになったのは明治の御代になってからのことである。
この大堰ができあがったおかげで、ひでりが続いても水量豊かに神留村の水田をうるおし、年々豊作を重ねたという。

出典:三瀬村誌p.668~670