洞鳴の滝情死悲話

洞鳴の滝情死悲話

  • 洞鳴の滝情死悲話
  • 洞鳴の滝情死悲話
  • 洞鳴の滝情死悲話

■所在地佐賀市三瀬村
■年代近世
■登録ID1329

 この話は今から約300年前の実話である。洞鳴の滝というのは、岸高から井手野へ向う県道を、東へ500㍍程行ったところにあり、今は民家のかげになっているが、むかしは民家もない渓谷で、道路もずっと高いところを通っていて、現在のような川添いの県道はなかった。滝の落差もいまよりずっと大きく、峡谷の奇岩怪石の間を、白滝のように落ちる水は、岩に砕けて数丈の滝となり、洞岩に轟く水の音は、あたかも竜が洞穴で叫び鳴くかのように聞こえたので、村人はこの滝を「洞鳴の滝」と呼んだ。滝の落ち込む淵はその底の深さも知れず、千古の色をそのままに、碧藍神秘の深淵として知られ、いまでも三瀬景勝の一つとされている。 
延宝9年辛酉(天和元年1681)正月21日。その日山内は夕方から大吹雪となり、土師村妙見社の大椋の木に吹きつける雪風は、ごうごうとすさまじい音をたてていたが、夜半になると風はすっかり止んで、雪だけが津々と降り続いていた。
 夜が明けてみると近年にない大雪で、あたり一面白皚々の銀世界と化し、裏山の孟宗竹も重々しく雪をかぶって弓のように曲り、枝葉を大地に垂れて、大雪のなかに埋もれそうになっていた。
 ここは、神埼奥山内の氏長者ともいわれる藤原村大庄屋 音成六兵衛重任の館である。主人の六兵衛重任は、昨夜の大嵐で寝つかれなかったせいか、明け方になってぐっすり寝こんでしまい、正午近くに目をさまして床をはなれた。館の縁側に出て、野山も谷も一面の準平原と化した大雪に見とれていると、八龍宮の下手の道を、幾つかの黒い人影が館の方へ小走りに近づいてくるのが見えた。その人影は館の門の外までくると、口々におろおろした声で「お館さま。一大事でございます。お知らせにまいりました。」と呼びつづけた。
六兵衛重任は、もしかしたらと思いあたる子細もあったが、ゆっくりと玄関まで出むかえ、「何事でござるかのう皆の衆。この大雪に村うちで何か異なことでもござったのか。」と尋ねた。
 先に進み出た名主の平兵衛が、涙を拭きながら、「お館さま、お気の毒なことながら、丁度正午に近いころ、雪も一先ず止んだというので、村の甚助どんが洞鳴の淵にエノハ釣りに出かけたところ、淵の下手の飛石のところに、若い男女の水死体が流れ着いているのを見たといって、あわてふためきながら知らせに帰って来ましたゆえ、私をはじめ皆の者が出向いて検めてみますと、お館の御曹子善忠さまとお仙女ではございませんか。一同びっくりして大急ぎお知らせにまいったようなわけでございます」と、報告した。
 六兵衛重任の曹子善忠は当年19歳、眉秀でて一目ぼれするほどの美少年であった。
 一方のお仙は、同じ藤原山の内、岸高村の庶民の娘で、芳紀まさに18歳、みめうるわしく、容貌は芙蓉を羞しめ、姿態は楊柳を凌ぎ、風に紊るる柳のような、ふんわりと垂れる黒髪、雨に悩める海棠のようなしおらしさで、まさに匂いこぼるるばかり。田舎には稀な美女で、村人からは北山小町と呼ばれていた。
 二人の間には、思春の年頃をむかえるとともにいつしか恋の心が芽生え、行き逢うたびに慕情はつのり、互いに人知れず思いを焦がす身となって、悩ましくやるせない日々を送るようになった。
  延宝8年弥生の中頃、岸高五丁の田原には黄金の色した菜種の花が咲き匂い、空には長閑に雲雀がさえずって、人の心も浮きたつような暖かい春の一日であった。
 善忠は心のままに、従者も連れずただ一人で土師の館を出て、洞鳴の淵に来て釣糸を垂れながら、時のたつのも忘れていた。お仙はその日、朝から桜の谷に早蕨狩りに出かけていたが、その帰りみち、丁度洞鳴の淵のほとりを通りかかった。
 無心に釣糸を見つめていた善忠が、通り過ぎようとする姉さ冠りの乙女を、何げなく振りむくと、夢にも忘れたことのないお仙が、ほのかに赤らめた顔に、花も恥じらう美しさを漂わせながら、足をとめて軽く会釈するのであった。
 目は口ほどにものを云うとか。呼ばれるともなく近寄って腰をおろしたお仙。二人は、釣糸を眺めながら、初めて言葉をかわしたが、秘めたる愛のささやきは、恥ずかしさにとぎれがちであった。こうして、此の日、初めて蜜のように甘いひとときを過ごしたのである。
 それからというものは一日逢わねば千秋の思いがして、叶わぬ恋と知りながら、しのぶ恋路の逢坂山(今の大佐古)、しのび逢う日を重ねるうちに、二人の胸には永遠に断ち切れぬ思慕の心と温い血潮が通いあって、もはや身分の上下はなく、行末を考えるゆとりもなく、父母のゆるしも待たないで、百歳も千歳も変らぬ契りを結ぶ仲となってしまった。
 しかし、当時の武家は、身分の違うものとの恋愛や結婚を厳しく禁じていた。武家の御曹子善忠と庶民の娘お仙は、いかに思いを焦がして恋し合おうとも、動かぬ階級の垣根は越せず、六兵衛重任のゆるしがない限り、所詮この世では叶わぬ恋とあきらめるより外はない悲しい運命にあったのである。
 鳴瀬川の流れは淀んで、長閑な春が来たというのに、あわれ道しるべなき恋の山路に踏み迷った二人。谷を蔽う花の色も目にはつかず、松に奏づる楽の音も耳には入らず、ただ、恋する人の声だけが玲瓏として胸の小琴の弦を揺すぶり、姿だけが夢枕にも失せやらぬ幻となって眼にうつるのであった。
 移ろい易い春は過ぎて、青葉の陰には、鳴いて血を吐くという時烏の訪れる夏となったが、深い悩みを胸に秘めて、鳴かぬ蛍の身を焦がす二人であった。
 とかくするうち夏も暮れ、物かな鴫の羽風に秋は立った。月見ては千々に心を砕き、虫を聞いては涙に袖を絞るうち、雁も鳴いて白露の繁き晩秋となった。秋は物こそ悲しけれと言うが、もの思う身にはまた一入。人の道も名誉も家柄も、すべてを捨ててこの恋を遂げようと心に定めた二人ではあったが、救いを求めて神よ仏よ許させたまえと、心のうちに祈ることも幾度かくりかえしたのである。
 やがてその年も暮れ、延宝9年の新しい年を迎えたが、こうした二人の仲が村人の口の端にのぼらぬはずはなく、噂はしだいに広まって、知らぬ仏は親だけではないかと言われるようになった。
 心配した伯父の古川五兵衛重治と広瀬六太夫ならびに伯母の妙世の三人は、今のうちに早く何とかとりなしてやらねば世間に対しても顔向けならないと、互いに相談し合って新年のあいさつかたがた土師の館を訪れた。
 父の六兵衛重任に会った三人は、善忠とお仙が恋し合う仲になっていることを話し、このままにしておいては世間体もよくないので、お仙を一先ず武家の養女にした上で、一日も早く二人を夫婦にするように切願した。 
 しかし、六兵衛重任は伯父伯母たちの勧めには耳をもかさず、烈火のように怒って善忠をその場に呼びつけ、
 「何としたことぞ、この親不孝者奴が。身分家柄を考えてもみよ。吾が家は遠く菅原道真公より代を重ね、宗祖音成遠江守殿がこの土師村に館を構えられ、肥前の国守からは奥山内の氏長者を許され、現世において佐賀、神埼三山内にて氏長者と申すは、神埼口山内の長者廣滝瀬兵衛往貞殿、佐賀口山内の長者佐保十兵衛家永殿、他の一家は神埼奥山内の吾が音成氏であるぞ。余人もあろうに、庶民の娘と恋仲に陥るとは言語同断。不義はお家の法度。七生までの勘当だ。」と、刀を引きよせ、いまにも切り捨てんばかりの勢いに、伯父伯母ともどもにどうすることもできず、ただ涙を絞って善忠を慰めるばかりであった。
 善忠は、たやすく許してもらえるとは思っていなかったが、あまりにも激しい父の怒りに弁解する余地もなく、いまは望みの綱もまったく切れ、この世での恋をあきらめるよりほかはなかった。
 善忠は深い決意を胸に秘め、それからの幾日かを悶々として館にひきこもっていたが、正月21日夜の嵐を幸いに、ひそかに館を抜け出し、愛しいお仙のもとへと急ぐのであった。
 夜も更けてお千の家に近寄った善忠は、きめていた合図でお仙を屋外に誘い、父の激しい怒りにふれたこと、この世で結ばれる一縷の望みも絶えたことなどを伝え、別れるよりも死を選びたいといういまの苦しい胸のうちを、涙とともに打ちあけた。聞いたお仙も心は同じ、別れて一人何で生きよう生きられよう。二人は浮世のおきての冷めたさに、身も世もあらず嘆き悲しんだが、いまはもう、親も恨まず世間をも憎まず。今生の恋をあきらめて、大慈大悲の御仏の在す安養浄土の世界で、二世三世までも夫婦になろうと誓い合ったのである。
 いまは風雪も止んで、たがいに固く抱き合って見上げ見下ろすお仙・善忠の凄艶な顔を、脚速に千切れる雲の間からのぞいた下弦の月が、淡くかすかに照らしていた。今宵まで互いに相慕い相誓った想い出の数々を秘めて、北嶺の谷間に咲いた愛の花は、五濁悪世から清浄歓喜の世界へと、蕾のままにいま散ろうとしている。憑むは尊い浄土での二世の契のみと、今生のはかない恋を悲しみながら、善忠とお仙は静々と思い出の洞鳴の滝へ向うのであった。
 それから数刻ののち、滝の上の洞岩に出て相抱いて立った二人は、南無阿弥陀仏の声もろともに、身をおどらせて千古碧藍の深淵に沈んでいった。延宝9年正月廿2日未明、うら若い愛の花は実のらずして散って逝ったのである。
 二人の没した水面に円を描いた水泡はまもなく消えて、あとには、峰に吹きわたる雪風と、丈余の滝の轟く音が、最期に唱えた二人の念仏の声を秘めて峡谷にこだまし、諸行無常のひびきをいつまでもつたえていた。
 さて、話はもとにもどって、里人のしらせをうけて、曹子善忠とお仙女の情死を知った六兵衛重任は、自分の意志があまりにも頑固一徹で、若いものの心情を理解し得なかったことを深く後悔するとともに、人生の無常をいまさらに感じ、胸がつぶれる思いがして、すぐになすべき術も忘れ、汀渚に寄せる泡とともに消え入るように力も抜けて打ちなげき、悲しみの声は干潟の夜の鶴のようにかすれて腸を断つばかりであった。
 しかし、いまとなっては如何に嘆いても逝った二人が帰るものではない。せめて死後にもと、二人の恋を許し、比翼枕に亡骸をならべて、死出の香華を枕辺に、奥山願正寺常楽山延覚寺住僧を導師として、読経の声もおごそかに葬送の儀式をすませるのであった。
 そうして、二人の遺体は、音成家累代の墓地に比翼塚を築いて、しめやかに葬ったのである。今も昔の面影をそのままに、相寄り相慕うように立てられた墓碑の下に、二人は安らかに永遠の眠りについている。
 山中観音禅寺に納められていた位牌には、
 同帰 孝岳善忠信士
    洞岩妙仙信女
    延宝九年辛酉正月廿二日
    施主 音成六兵衛重任
とあったが、墓碑には天和元年辛酉三月廿二日と刻まれている。
 注 位碑に同帰とあるのは同時に死んだことを意味し、また、年号が違うのは延宝九年に天和元年と改元されているからで、同じ辛酉年に違いはない。
 また、洞鳴山にはお仙女の菩提のために、観世音を祀って冥福を祈った。村人はこれを「お仙観音」と呼んでいる。
  為洞岩妙仙女頓証菩提
   延宝九辛酉年三月二十三日
    本願  音成六兵衛重任 同市左衛門
        中野仁右ヱ門  芹田弥右ヱ門
        廣瀬六太夫  廣瀬妙正
        古川五兵衛重治 高島又右ヱ門
        高島徳右ヱ門  中川宗右ヱ門
        徳川織右ヱ門
          土師村女人講中     
          七間谷女人講中
          落屋敷女人講中
    碑面には以上のように刻まれている。

出典:三瀬村誌p.662〜666