碇 壮次

  1. 東与賀町
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碇 壮次

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■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1196

明治36年9月1日、東与賀村大野碇弥一・さかの次男として誕生し、佐賀県立佐賀中学校より軍人を志願して海軍兵学校に入学した。卒業後は艦隊参謀や兵学校教官等海軍の中堅将校として活躍し、支那事変や太平洋戦争には戦火の中に身を挺して、国家興隆のためにその半世を捧げた。その功績により昭和20年には海軍大佐に昇進したが、遂に終戦を迎えその翌年復員となり、故郷に帰還し数か年間は家事に従事したのである。
昭和30年5月には衆望を担って東与賀村長に当選し、以来昭和55年1月突然にも病魔に襲われて死去するまで、実に連続7期25年間を、ただひたすらに町政の発展向上に努力した。彼の性格は和をもって信条となし公正無私、責任感も極めて旺盛で積極的な行動力と指導力は抜群であった。
彼は村長に就任以来先ず単独町村としての財政の立直しと健全化を目指して、役場内部の機構充実と改善を断行し、また農業を主軸にした畜産・園芸・水産等町産業の振興に専念した。特に干拓造成と海岸堤防強化に努力し、昭和40年立野・飯盛地区の構造改善事業を皮切りに、同54年までに全町内県営圃場整備事業1.100ヘクタールの面的工事を完成した。かつては曲りくねったクリークと畦に囲まれた田ん圃も、今では区画整然とした農道と耕地と水路に恵まれ、しかも田植機・コンバイン・散粉器等を自由に駆使して大農業の出来る緑の美田に改変したのである。
またこの基幹産業に付随して、乳牛を中心とした酪農やハウス栽培(イチゴ・メロン・ブドウ等)の副業奨励にもはまり、農村環境整備モデル事業の指定町村としてのセンターの整備等、本町の産業基盤作りを着々として実現した。
更に次代を担う児童・生徒の教育振興にも意を注ぎ、昭和35年には学校の完全給食を実施したり、その後中央公民館をはじめプールや体育館を建設して、児童生徒の体位と体力は見違えるほどに伸長拡充した。とりわけ社会体育の振興に努力し、一般女子のソフトボール・ママさんバレー等各種の運動クラブの育成強化と陣頭指揮に専念した。この事は本町の運動スポーツのみならず、全県下の体育振興にその情熱を燃やし、去る昭和51年の若楠国体において、本県は栄えある総合優勝の栄冠となって開花したのである。
更に漁港の新設改良や海苔養殖を積極的に奨励し、生産技術と品種改良を推進し全国でも最高の生産額を誇る海苔の生産地として、有明漁業の発展にその基礎を堅めたのである。
しかも東与賀町長としての業務遂行だけでなく、本県の各種団体の役職をも引き受けて精一杯の活躍をした。佐賀県海岸協会会長ほか多くの公務や要職について、本県の産業や福祉・教育や体育等の発展向上に卓越した識見と行動力で尽瘁(じんすい)した。その功績は賜杯の栄光にも輝き県民のひとしく賞賛してやまないところであった。

出典:東与賀町史p1257