辻 演武

  1. 東与賀町
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辻 演武

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1192

辻演武は干拓の大功労者演年の孫で、東与賀村長辻武一郎の長男として、明治25年2月26日東与賀村住吉に生まれた。(参議院議員福岡日出麿の実兄)家は男女工が50名以上も働く、網製造業と製糸業を営み大きな工場が2棟あった。佐賀中学校から軍人を志して熊本幼年学校へ進み、陸軍士官学校を卒業して、大正2年陸軍砲兵少尉として久留米野砲二十四連隊付となった。広く各方面の読書に親しみ、視野の広い人間味豊かな武官であった。朝鮮龍山砲兵隊付の頃から荻原井泉水の俳句に私淑して句作を始めている。
軍歴の主なものは参謀本部付(東京)第三師団参謀(名古屋)豊橋陸軍教導学校学生隊長をつとめ、野砲二十三連隊長として昭和13年上海に上陸して、江南の治安確保に努め各作戦に武勲をたてて勲二等瑞宝章に叙せられている。20年1月、陸軍兵器学校長(相模原)となり中将に昇任した。やがて終戦を迎え待命となったが従四位に叙せられている。
終戦残務整理後は郷土住吉に帰り、山田卯次郎方に同居し、馴れぬ農業を始めた。しかし博学で研究熱心な中将は、本を読み、農業試験場を訪れ、栽培一覧表を自ら作成する等、篤農家も教えられることが多かったという。
やがて商事会社の取締役社長となり住居を佐賀市に移したが、当時発足した「ひのくに」佐賀支社短歌会に入会して同人となった。自らを「有思」と号して余生を短歌に打ち込み、老いゆく日々の生涯を歌に親しみ歌道に精進した。その後昭和43年3月三男の家族と共に広島に移住したが、翌年8月10日心不全のために死去した。行年77歳。
辞世の句「戦友を 野辺送りせし それにならい わが弔いは 一花一僧にてたる」
その3回忌に歌友の代居三郎が、『ひのくに』誌上に発表した作品その他から144首を選び、『軍旅のかげに』の遺歌集を編集し出版した。その中より数首を掲載する。
冬晴れの 日ざし明るき 庭のべの 枇杷(びわ)の花むら 蜂がきてゐる
雷ひびき 粉雪やまぬ 北満に 雄々しかりにし 友ら目に顕つ
青空を 支ふる如き 大楠の 茂りあいつつ 風に揺れゐる
大鮒の 昆布巻もらい 久々に 楽しき老いの 食慾の秋

出典:東与賀町史p1253